1.「植物人間」という言葉
「植物人間」という言葉がある。これには二つのニュアンスがある。ひとつは生存機能が著しく障害され、さまざまなアシストを必要としている状態である。もう一つは、こちらの呼びかけに応答せず、コミニュケーション不能の状態で生きていることを指している。いずれの状況においても、それがかなり長期にわたることが条件となっている。
それを「尊厳」というもっともらしい言葉で切って捨てる時、そこには“植物人間はもはや人間ではない”という暗黙の論理が横たわっている。
その論理には3つの前提条件が含まれている。
1.尊厳を失った人間は人間ではない
2.他者に依存する生命は生物の名に値しない
3.意識的に動く生命が、人間的生命の本質である
しかし、これらは生物学的にはウソである。簡単なことだ。同じ論理を使えば、赤ん坊は人間ではなく植物人間だということになるからだ。
まあ、そう言っちまっては身もふたもない。こちらも常識はわきまえている。年寄りがふっと息を引き取るのを無理に引き止めるつもりはない。
ただそれを大上段に振りかざされると、俄然反抗心が頭をもたげる。
卵を産まなくなった鶏と一緒にされては困る。鶏には悪いが、鶏は卵を生むから「ニワトリ」(という商品)なのであって、卵を生まない鶏は電線の切れた電球と同じなのだ。我々社会の一員ではない。

2.進化論から見た動物と植物
しかし今回言いたいのは、そういう社会的定義ではない。
言いたいのは、人を「植物人間」と斬りつけ、動物と植物とを截然と分け、動物に優位性を与え、動物の中に優劣の階梯を形成するのは間違っているということである。それは、進化の立場からしても容認出来ない極論(形而上学)である。
まず、当たり前だが、生物は“動くもの”ではない。
生物とは生命を持ったものである。
生命とは何かというと、これはこれで難しい問題だが、おそらく代謝(同化と異化)装置と生殖(増殖)装置が生命の基本装置だろうと思う。
動かない生命はたくさんある。植物は、もちろん相対的なものだが、ちょこまかと動くものではない。しかし生命はある。成長もするし生殖も行う。そこには寿命があり、いつかは命を終える。動物が動かなくなったら植物になるというのでは植物に失礼だ。
動物というのは生命・生物の中ではかなり特殊な形態である。それは自己栄養装置を持たない生命形態である。そしてその代わりに移動装置と捕食装置を身に着けた生物である。
その昔、生命は少数の細胞の集合体であった時期に葉緑体を獲得し、植物として大発展する。大発展した植物を前提として、それに依存する形で動物が誕生する。さらに動物の間に食物連鎖が成立する。
だから、まさしく動物は他者に依存する生命なのである。食べ物を口から入れようがPEGからであろうとIVHからであろうと、それは形態の問題にすぎない。

3.動物の動物たる所以
ところで動物が動物であろうとする限り、捕食装置は必然的である。しかし動物が飛躍的に発展したのは移動能力が発展したからであって、捕食能力が向上したからではない。これは視覚の獲得が先行し、これに伴って脳神経系が発達したからである。(さらに言えばそれにふさわしい筋骨格系の発達も含まれる)
脳神経系の発達は、動物が“動く生物”から、体を動かし“移動する生物”に転化したことを意味する。そして“どうやって体を動かすか”と“どこへ動かすのか”という「動く」内容の二重化である。
哲学的に言えば、動かす自己と動く自己への分裂、すなわち意識の発生である。
ついでに言えば“なぜ動くのか”という問題がある。これは情動が絡む話で、「動け」という命令は神経系と内分泌系が接合する視床下部からくるのだが、ここでは省略する。

4.動物(脊椎動物)は生きる意志を持っている
動物が生きる意志と目的を持つのはこの頃まで遡る。(ただし昆虫類はまったく別個の発展を遂げているので、直接には云々できない)
魚の時代まで遡る、このような意識がそう簡単に消失するとは考えにくい。自発性の低下は結果であり、それは失われたのではなく障害されているか、抑制されていると見るべきである(脳幹障害では自発性の低下がプライマリーとなりうる)。
一番多いのはクスリ(とくに抗GABA作用)、もう一つは低栄養と低張性脱水、要するに疑似冬眠だ。

5.人の命は結構しぶとい
長々と述べたが、要するに尊厳とか人間性とか生命倫理などの言葉で語る論理は、およそ非科学的で独りよがりなものだということだ。坊主にバトンタッチするのはいつでも出来る。やり残しはないか最後のおさらいはしておくべきだろう。
人の命は人類以前から積み重ねられてきた営みの重層性の中にある。そこをしっかりと踏まえたうえで、我々は議論すべきだろうと思う。