最近の不破さんの話はまことにスリリングで、どう受け止めたらいいのか、戸惑いを感じてしまうほどである。

要するに、とにかく「伝統」と呼ばれるものからスターリン的要素を剔抉して、徹底的に浄化しようということに執念を燃やしている。その迫力はこれまでの「反スタもの」に比べて格段の違いがある。

本日の「本と私」という党外の人に向けた講演でも、その思いは一貫している。

その中で、「うーむ」とうなった箇所を上げておく。

1949年の11月、新中国の誕生直後に北京で開かれたアジア太平洋州労働組合会議で、劉少奇が武装闘争の大号令をかけたんです。
翌年には、いわゆる「50年問題」で、日本共産党への武装闘争方針の押し付けが始まりました。
私たちは、そこに劉少奇演説の流れを見ていたのですが、この本 の第1冊に劉少奇のスターリン宛の手紙(49年8月)があり、“労働組合会議で武装闘争を呼びかけるのは反対だ”と訴えていました。それをスターリンは押し切ったのです。

ここでこの本 と言っているのは、2007年に不破さんが北京に行ったとき、たまたま本屋で見つけたという「建国以来 劉少奇文稿」である。

毛沢東以前の中国共産党について勉強したが、“お殿様の言うことは何でも飲み込む”姿勢は、中国共産党の習い性となっている。清朝時代の“美風”をそのままに引きずっている。近代市民文化の未成熟がその背景にあるのだろう。

それがスターリン主義を増長させた。酷な言い方だが、結局のところその“美風”は、客観的に見れば“下からのスターリン主義”と批判されても仕方ない。

ただその組織が国を支配するようになってくると、そこから抜け出す自由はもはやない。“美風”は“悪風”となる。そして劉少奇自らがその犠牲となった。

“悪風”は、最後は自分たちで克服していくほかないのである。


どうも書いていて、我ながら隔靴掻痒の感がある。

中国の伝統として白髪三千丈的な表現がある。言葉が踊るのだ。

だから言葉と実際の感情の間には乖離が生じることがある。それがスターリン的な荒っぽい表現を加えたために、一層それが激しくなる。それを外部の人間が見ると、とくに日本人だと非常に激しく受け取ってしまう。

事実としては、陳独秀も瞿秋白も李立三も、悪しざまに罵られ、指導部のポストを追われた。しかし党には残り、何時の日か再起している。あの王明ですら、革命後は政府の要職を務めている。

だから、政権交代劇はひょっとするとコミンテルンの顔を立てるために行われたにすぎないのかもしれない。

ということは、コミンテルンの指令は一応は受け取られるが、意に沿わないものであればいずれは破棄するつもりだったかもしれない。ただやるのであれば本気でやらなければならない。「それが民主集中制というものだ」ということか。

劉少奇にもその傾向がうかがわれる。勤工検留学生上がりに特有の気質かもしれない。

そこへ行くと王明は結構本気だった。彼の讒言で多くの活動家幹部が粛清されたり、敵に売り渡されたりしている。康生はもっと本気(むしろ狂気というべきか)だった。浅間山荘の連合赤軍連中のように、言葉と行いの間に隙間がなかった。