以下は岩波新書「シリーズ中国近現代史② 革命とナショナリズム」から編年風に抜書きしたものである。
いずれ「毛沢東以前の中国共産党」年表と合体するつもりだが、とりあえず掲載しておく。


1919年

10月 孫文らの中華革命党を中心として中国国民党(以下国民党)が結成される。

1921年

中国共産党が上海で第1回党大会を開催。この時の党員数は全国で50名余。

1922年

第一次奉直戦争。直隷派の勝利に終わる。

1923年

1月 孫文・ヨッフェ連合宣言が発表される。これによりソ連との連携方針が明らかになる。孫文は、「ソヴェート制度は中国には適さない」と留保。

この後、コミンテルン・ソ連から派遣されたマーリン、ボロジンらの助言を受け、党組織の改革「改進」が推進される。これまでの孫文専権党から、党大会を頂点とする近代政党に切り替わる。

3月 中国国民党、西南地方の軍閥を結集。広東で地方政権「大元帥府」を立ち上げる。

10月 北京の直隷派、「賄選」と呼ばれる議員買収で曹錕(金偏に昆)を大総統に選出する。直隷派は全国統一を目指し反対派(奉天派、安徽派)に圧力。

秋 国民党、党員の再登録を実施。広東省内の党員は3万から3千に減少する。

23年 孫文、ソ連に代表団を派遣。蒋介石も加わる。

蒋介石は日本に留学し陸軍で実習を積む。11年に帰国後は孫文の革命運動に加わり、軍事面で支え続けた。当初は必ずしも反共ではなく、孫文の連ソ容共方針にも積極的に賛同していた(石川)

1924年

1月 国民党、第1回全国代表大会を開催。国共合作を容認。ただし共産党員は国民党への二重加盟を求められた(党内合作)。共産党員の多数がこれに反対するが、コミンテルンに押し切られる。この時点で共産党員は全国で約500人。

6.16 広州の東郊外に黄埔軍官学校が開設される。総理に孫文、校長(軍の最高指導者)に蒋介石、党代表に廖仲愷が就任。ソ連軍事顧問団の指導を受ける。

9月 第二次奉直戦争が始まる。広東政府も反直隷同盟に加わる。両軍合わせ30万の兵力が動員される。南下した張作霖の奉天軍と直隷軍が北京東方の山海関付近で激突。

9月 国民党が広州の武力統一に乗り出す。翌年までに広東省の統一を実現。

10月 直隷軍の馮(ふう)玉祥が奉天軍に寝返る。北京を制圧し曹?を監禁する(北京政変)。背後を衝かれた直隷軍は総崩れとなる。

馮玉祥、自軍を「国民軍」と改称。皇帝退位後も紫禁城に住んでいた溥儀を放逐する。さらに張作霖の同意をえて、段祺瑞を北京政府の「臨時執政」に担ぎあげる。

12月 孫文、「北上宣言」を発し北京に入る。機能不全に陥った国会に代わり、全国の社会団体代表による「国民会議」を開催し、中央政治を一新せよと訴える。

国民党の党規約が制定される。ソ連共産党にならい、「民主主義的集権制度」を党の原則とする。

 

中国共産党の財政(石川:岩波新書中国近現代史③ より。以下石川と略す)
1924年度のデータで、総収入32千元。うち党費などによる収入は2千元足らずだった。すなわちソ連からの援助が3万元ということになる。党への直接援助の他に、労働組合やソ連政府援助の流用をあわせると10万元以上が中国共産党に流れたと考えられる。27年には援助総額は100万元に達した。石川の試算では当時の1元は現在の750円に相当するという。

レーニンが死亡。民族統一戦線を重視するソ連共産党・コミンテルンの対中方針はそのまま継続。

1925年

2月 上海の日系紡績工場「内外綿」で労働争議が始まる。

3.12 孫文、北京で軍閥政府と交渉中に死去。享年58歳。死因は肝臓がん。「革命なお未だ成功せず。同志なお須らく努力せよ」の遺言を残す。なお「連ソ容共」路線の継続を訴えるソ連あての遺言は、後の中華民国政府により無視された。

5月 広州で第2回全国労働大会が開かれる。「軍閥と国際帝国主義を打倒する革命」を決議。中華全国総工会の結成を宣言。166の組合、54万人の労働者を結集。

5.16 内外綿争議で、日本人職員が中国人労働者を射殺。共産党は糾弾闘争に立ち上がる。

5.30 「530事件」が発生。上海租界で、共産党の指導する判定示威運動。共同租界当局は群衆に対して発砲。13人の犠牲者を出す。

6月 上海総工会の呼びかけたゼネストに20万人が参加。総工会は中小企業家や学生団体とともに工商学連合会を結成し対外ボイコット運動を展開。都市機能は1ヶ月間麻痺状態に陥る。

6.23 広州の英仏租界の沙面を10万人が取り囲むデモが発生。恐慌をきたした守備隊の発砲により52人が死亡する。香港で働く13万人の労働者が広州に引き上げ。国民党政権の支援を受けた労働者糾察隊2千人が香港・広州間の交通を遮断し、香港と沙面を封鎖。

香港スト: 香港でのストは26年10月まで16ヶ月にわたり続けられた。この長期ストにより香港は「臭港」「死港」と化した(石川)。

6月 ロシア共産党政治局、中国(主に広東政府)への150万元の軍事援助を決定。これは4月から9月までの半年分とされる。

7月 広東の国民党政権、大元帥府から「国民政府」に改称。主席に汪精衛が就任。

8月 従来の諸軍を再編し国民革命軍が編成される。黄埔軍官学校の卒業生が中核を担う。

8月20日 孫文後継者と目された廖仲愷、広州市内で国民党右派により暗殺される。

夏 孫文側近の戴季陶、「孫文主義の哲学的基礎」、「国民革命と中国国民党」を相次いで発表。共産党の寄生政策を批判して、「純正民主主義」の徹底を訴える。

ただし戴季陶は蒋介石宛の私信で、「今日もっともよく奮闘せる青年は大多数が共産党であり、国民党の旧同志の腐敗・退廃は覆うべくもない」と告白している(石川)

秋 共産党員数が3千近くに達する。多くが国民党政府のメンバーとして活動。

11月 張作霖配下の郭松齢、馮玉祥と結び反乱を起こす。日本軍の支援を受けた張作霖は郭松齢の軍を殲滅。これを受けた馮玉祥の国民軍は北京を退去。西北方面で再起を狙う。

広州で「被抑圧民族連合会」、「ベトナム青年革命会」、「台湾革命青年団」などが結成される。

1926年

初頭 馮玉祥、国民党に加入し反乱を起こす。ソ連は国民軍を広東と並ぶ革命勢力とみなし、軍事顧問団の派遣や武器の援助を行う。蒋介石はソ連の二股膏薬に不信感を抱いたとされる。

1月 国民党第2回大会。左派が躍進したことから「左派による勝利の大会」と呼ばれる。汪精衛が最高得票を獲得。左派の支援も受けた蒋介石は、第2位で中央執行委員に選出される。

3.18 馮玉祥の国民軍と戦う張作霖に対し日本など列強が公然と支援。これに抗議する学生デモが北京で展開される。政府軍の発砲により47人が死亡。事件の責任を取り段祺瑞が引退。以後、奉天派支配のもとで直隷派との連合政府が成立するが、いずれも短命に終わる。(この年だけで5回の政権交代)

3月 中山(ちゅうざん)艦事件。国民革命軍の砲艦「中山」が蒋介石の承認なしに独自で航行。蒋介石は広州に戒厳令を布告し、ソ連軍事顧問団の公邸を包囲、労働者糾察隊の武器を押収。

蒋介石と広州訪問中のソ連使節団(団長ブブノフ)が事態の収拾をめぐり交渉。施設団はソ連軍事顧問団の越権行為を認め、顧問を更迭。さらに北伐の早期開始を容認し、そのために省港ストの収束方針を承認。

汪精衛はソ連の蒋介石への妥協に反発。国民政府軍軍事委員会主席の職を辞ししフランスへ去る。

4月 蒋介石が国民政府軍軍事委員会主席に就任。

5月 国民党、共産党員の国民党内での活動を制限する「整理党務案」を押し付ける。

5月 北伐を目指す国民革命軍が編成される。蒋介石が総司令に就任。

5月 北伐の前哨戦。国民革命軍北伐先遣隊が湖南省に入る。

呉佩孚が湖南省支配を狙うが、これに反発した省長代理の唐生智が戦を構える。国民革命軍はこれに介入し唐生智も国民革命軍に加わる(第8軍)。

6月 蒋介石、国民党主席(中央執行委員会常務委員会主席)のポストも獲得。

7月 国民党政府、「北伐宣言」を発表。国民革命軍動員令を発する。

北伐軍は全8軍、25師団編成。総兵力は10万を数えた。第1軍のみが黄埔学校卒業生を主体とする近代的軍隊で、残りは軍閥の部隊を再編したものであった。これに対抗したのは湖南の呉佩孚軍25万、江西の孫伝芳軍20万、彼らの背後には張作霖軍35万が控えていた。

7.09 北伐軍本隊が広州を出発。

7.11 呉佩孚軍、湖南の省都長沙を撤退。北伐先遣隊と唐生智の第8軍が制圧。

8月中旬 北伐軍、湖南省の主要部を制圧。

8月末 北伐軍、汀泗橋・賀勝橋で呉佩孚軍主力を撃破。

9.23 スターリン、モロトフ宛に「漢口はやがて中国のモスクワになるだろう」と書き送る。

9月 馮玉祥の軍、綏遠省で挙兵。陝西省方面へ攻勢をかける。

9月 イギリス砲艦、長江上流の万県に砲撃を加える。

秋 蒋介石、腹心の邵力子をモスクワに派遣。「ソ連共産党とコミンテルンの指導のもとに、その歴史的役割を完遂する」ことを明らかにする。

10.10 北伐軍が武漢を制圧。呉佩孚軍はまもなく壊滅。

10月 共産党が主導して上海で第1回目の蜂起。失敗に終わる。

11.08 蒋介石の率いる直属部隊と第7軍(軍長・李宗仁)が省都南昌を制圧。孫伝芳軍の前に苦戦し、1万を超える戦死傷者を出す。

11月 馮玉祥の軍、西安に進出。陝西省の大部分を制圧する。

11月 広州の国民党中央、党と政府の武漢への移転を決定する。

12.09 福建省の省都福州が北伐軍により制圧される。

12月 湖南・湖北の農民協会、半年で40万から160万に拡大。各地で武装し北伐軍を側面支援。

12月 国民党中央の先遣隊が武漢に到着。党中央と政府の臨時連席会議を組織する。

主要メンバーは徐謙(司法部長)、孫科(孫文の長男)、陳友仁(外交部長)及び政府顧問のボロディン。

1927年

4月 国共合作下の武漢で、第5回共産党大会。党員数6万人。労働者が6割、農民2割、知識人2割の構成。女性党員も8%を占める。

5月 コミンテルン第8回執行委員会総会。トロツキーは武漢国民党の反動化を警告するが、スターリンは国民党を通じた土地革命を想定し、中国共秋収産党に武漢政府への協力を求める。

陳独秀、武漢分共の責任を問われ、「右傾日和見主義」の批判のもとに解任される。

7月 スターリンのモロトフあて書簡。「中国共産党の中央委員会には簡単なやさしい要求がある。それはコミンテルン執行委員会の指令を達成することだ」と盲従を求める。

8.01 南昌蜂起。国民革命軍内の共産党派だった葉挺、賀龍、朱徳らの部隊が江西省の省都を中心に反乱。「中国国民党革命委員会」の名義で「革命の政党」を受け継ぐことを宣言。広東での政権樹立を狙い、南下を開始。

8.07 共産党、漢口で緊急会議を開催。陳独秀の路線を批判するとともに、南昌蜂起に呼応して「秋収蜂起」(湖北・湖南で秋の収穫期に蜂起する方針)を決定。湖南の農村活動家・毛沢東が指揮に当たることとなる。

9月 南昌蜂起部隊、広東までの間に国民党の攻撃を受け壊滅し四散。秋収蜂起もことごとく鎮圧される。

10月 毛沢東、秋収蜂起の残党1千名を率い井崗山にこもる。井岡山は湖南・江西の省境をなす山岳地帯。緑林・土匪を取り込み「工農革命軍第1軍第1師第1団」を組織。

11月 共産党、左派国民党を僭称することをやめ、共産党のもとにソヴェートを建設する方針を決定。広東省陸豊・海豊にたどり着いた南昌蜂起軍の残党がソヴェートを名乗るがまもなく殲滅される。

12月 広州蜂起。広州ソヴェートが樹立されるがまもなく鎮圧される。この時武装勢力に初めて紅軍の名が付けられる。

1927年

1.01 「武漢国民政府」が正式にスタートする。

1.03 武漢政府の臨時連席会議、3月に国民党中央総会(二期三中全会)を開催すると決定。軍(蒋介石)からの権限回復を図る。

南昌(江西省)に北伐軍総司令部を構える蒋介石は、臨時連席会議の正統性を認めず。南昌で独自の中央政治会議を開催。二期三中全会の南昌開催を決議。しかし南昌在留の党中央委員の多くが武漢に移ったことから、蒋介石の正統性は薄れる。

1月初め 漢口の英租界で反英闘争が激化。武漢政府は英租界臨時管理委員会を設置し、租界を接収する。その後、江西省の九江でも英租界が接収される。租界接収の動きを見た列強は、最大の租界を抱える上海に軍を結集。

武漢の労働運動指導者だった劉少奇は「労働者は企業を倒産させるという要求を掲げ、賃金を驚くべき水準に引き上げ、一方的に労働時間を1日4時感以下に短縮した」と述懐する。また農民運動は土地没収や地主の迫害を常態化させ、食料米の流通を阻害した。(石川)

2月 共産党、第2回目の上海蜂起。失敗に終わる。

3月 武漢で国民党中央総会(二期三中全会)が開催される。党常務委員会主席ポストの廃止、軍総司令の権限制限などを決定。労工部長、農政部長には共産党員が就任。

3.21 共産党、第3回目の上海ゼネスト・蜂起。2日間にわたる市街戦の末、奉天軍を放逐することに成功。当初、租界への攻撃はなく、外国軍との衝突はなし。

3.22 北伐軍の先鋒が上海に入る。ゼネスト勢力は「上海特別市臨時政府」を樹立。

3.24 国民革命軍の第2,6軍が孫伝芳軍を駆逐し南京に入る。一部が外国領事館や教会を襲撃し外国人数人を殺傷する。英米の砲艦が南京城内を報復攻撃。死者多数を出す。

蒋介石は日本政府に急使を送り、南京事件の誠意ある処理を約した。日本政府は報復に同調せず、蒋介石と国民政府内の過激分子粛清について密約した(石川)。

3.26 蒋介石が上海に入る。

3月末 コミンテルン、上海の共産党組織に対し、武力による租界突入を禁止する通達。また労働者糾察隊の銃刀器の携行を禁じる。

3月末 武漢の国民党中央、南京駐留中の第6軍(左派系)に対し蒋介石の逮捕を密命する。蒋介石は第6軍を南京から移動させ、直系の第1軍を配備。

4.01 汪精衛がソ連経由で上海に戻る。ただちに蒋介石や共産党の陳独秀らと会談に入る。

4.04 蒋介石、「共産党分子はデマを流し、団結を損なっている。これ以上の撹乱行為は反革命だと言わざるを得ない」と発言。

4.05 スターリン、「蒋介石など右派も帝国主義者と闘っており、今決裂する必要はない」と演説する。

4.05 汪精衛、陳独秀と共同宣言を発表。両党の友好関係を確認。また蒋介石への信頼を表明。その後武漢に向かう。

4.08 スターリン、蒋介石あてにみずからの肖像写真を送り、「中国国民革命軍総司令官蒋介石氏の勝利」を祝う。

4.08 国民党中央、産業の中心地である南京への遷都を決定。

4.09 蒋介石、駐留先の南京で左派系の集会を弾圧、さらに江蘇省党部を襲撃する。

4.11 広州でも蒋介石派の軍による左派弾圧が行われる。

4.12早朝 蒋介石隷下の第26軍、上海市内各所で労働者糾察隊の武装解除に乗り出す。この衝突で糾察隊員300人が死亡。小銃3千、機関銃20などの武器が押収される。

4.13 上海総工会が26軍にデモ。軍の発砲でさらに多数の死傷者。軍は総工会本部を占拠し左派・共産党系組織の解散を命令。その後広州でも同様の弾圧。

この後、上海は驚異的な発展を遂げる。人口は300万人(東京・大阪は200万人)、消費電力も東京を上回る。バンドには高層建築が林立。女性は摩登(モダン)な旗袍(チャイナドレス)で着飾る。活字、映画文化などが花開き、繁華街は電飾で不夜城と化した。(石川)

4月 北京を支配する張作霖、ソ連大使館を強制捜査。潜伏中の李大ら共産党幹部を逮捕・処刑。

6月 張作霖、「安国軍政府」大元帥に就任。みずから政権を握る。

4.17 武漢の国民党中央、蒋介石をすべての職務から解任。党からも除名する。

4.17 蒋介石、南京在留の党役員を集め国民党中央政治会議と中央軍事委員会を組織する。

4.18 南京に胡漢民(孫文とともに働いた古参幹部)を主席とする独自の国民政府が樹立される。蔡元培(元北京大学学長)らが蒋介石政府の支持に回る。

5.30 コミンテルンの中国に関する決議。これに基づきスターリンの「5月指示」が送られる。(中国への到着は6月初め)。中国共産党に極左的方針を持ち込む一方、国民党左派との連携を説く。

主な内容は①土地革命の断固実行、②武漢政府と国民党の再改組、③共産党員2万人の武装、④労働者・農民5万人の国民革命軍への加入、⑤反動的な武漢の将領の処罰など(石川)

6月初め コミンテルンの現地代表ロイ、「5月指示」を汪精衛にリーク。汪精衛はソ連の支援増強を条件に5月指示を受け入れる。

6月末 武漢政府は1500万ルーブルの援助を求めたが、200万ルーブルしか得られず。このため中央政府における汪精衛の地位は一気に弱体化する。

6.10 馮玉祥が武漢政府、南京政府と相次いで会談。蒋介石の側に立ち、武漢側に蒋介石との協力と労農運動の抑制を求める。

6月 日本政府、英・米の同調を得て第一次山東出兵。2ヶ月後に撤兵する。

7.15 武漢の国民党中央が会議を開催。汪精衛は5月指示の存在を明らかにする。会議は党・政府・軍における共産党員の職務停止を決議する(武漢分共)。第一次国共合作は終わりを告げる。

8月 孫伝芳軍の追撃に移った蒋介石軍、徐州の闘いで惨敗。蒋介石は下野を宣言する。

9月 国民党の最高機関として中央特別委員会が招集される。みずからの正統性を批判された汪精衛はこれを不満として引退を言明。

9月 無役となった蒋介石が私人の資格で日本を訪問。田中義一首相らと会談を重ねる。

蒋介石は、日本が「かつてのソ連のごとく」北伐を支援してくれるようもとめたが、北支の権益拡大を狙う日本側は確たる言質を与えなかった(石川)

27年末 蒋介石と汪精衛が不在の中央特別委員会は、何も決まらないまま解散。

1928年

1月 蒋介石が国民革命軍総司令官に復帰。2月には党の軍事委員会主席、3月には中央政治会議主席も兼任する。

国民革命軍の再編: 共産党・左派の占めていた軍は吸収併合され、4つの集団軍に統合される。第1集団軍・蒋介石、第2集団軍・馮玉祥(河南)、第3集団軍・閻錫山(山西)、第4集団軍・李宗仁(広東)が守備範囲となる。総勢は60万に達し、北方部隊合わせて20万を圧倒する。

第二次北伐を開始。

4月 日本、第二次山東出兵。第6師団5千人が省都済南に派遣される。

5.03 済南事変発生。済南に進出した北伐軍と日本軍が衝突。日本側の砲撃により中国側軍民3千人以上が死傷する。北伐軍が撤退迂回したため、済南は1年にわたり日本の占領下に置かれる。

済南事件はその後の対中侵略の雛形となった。①出先機関が事件を拡大・激化、②軍中央・政府が後追い、③世論が「暴支膺懲」論で後押しというパターン。いっぽう①中国国民の主要敵は英国から日本に移り、②蒋介石の親日方針は解消され、③英米両国が日本を批判的に見るようになった。(石川)

6.03 張作霖、特別列車で北京を脱出。奉天に向かう。

6.04早朝 張作霖を載せた特別列車、奉天直前で爆破される。後に関東軍の謀略であることが明らかになる。

6.08 国民革命軍(北伐軍)、北京に無血入城。天安門に孫文の肖像が掲げられる。この時点で軍勢は200万人にまで膨れ上がる。

6.15 国民政府、北伐と全国統一の完成を宣言。南京を首都とし、北京は北平と改称する。

7月 張作霖の息子張学良が東3省保安総司令となる。国民党と手を結ぶ道を選択。

10月 国民党、「訓政綱領」を発表。6年間の党独裁期(訓政期)を経たあと憲政に移行するというもの。

11月29日 張学良が易幟を断行。東3省にも青天白日旗が翻ることになる。国民政府は張学良を東北辺防軍司令長官に任命し内政の自治を承認する。

1928年

4月 朱徳の率いる南昌蜂起軍の残党2千人が井岡山に合流。中国工農紅軍第4軍を編成。軍長に朱徳、党代表に毛沢東が就任。

6月 共産党の第6会大会。国内での開催が困難となりモスクワで行われる。党員は最大時の6万人から1万数千に激減。

1929年

29年初め 毛沢東の第4軍、井岡山を離脱。江西省南部の瑞金に移動。

1929年

5月 張学良、ハルビンのソ連領事館を強制捜索。その後中東鉄道(シベリア鉄道の満州通過部分)の接収に踏み切る。

8月 ソ連が東北部に侵入。張学良軍を撃破する。

11月 ハバロフスク休戦協定。中東鉄道は引き続きソ連の支配下に置かれることとなる。

ソ連は共産党に「労働者階級の祖国ソ連を守れ」のキャンペーンを強制。これに異議を唱えた陳独秀は党を除名される。

1930年

3月 共産党の影響のもとに魯迅を押し立てた左翼作家連盟が結成される。

汪精衛ら「改組派」、青年党員を結集し反将運動を起こす。閻錫山、馮玉祥、李宗仁が改組派に合流。河北での大規模な内戦(中原大戦)に発展する。双方合わせ100万の軍を動員、死傷者は30万人に上る。

9月 北平に「国民政府」が樹立される。主席に閻錫山、政府委員に汪精衛、馮玉祥、李宗仁が就任。

9月 張学良が蒋介石を支持し北平・天津に進出。これにより中原大戦は収束に向かう。

1930年

3月 この時点で、「革命根拠地」(ソヴェート)は15ヶ所、軍勢は合計で6万、銃器3万丁を確保する。ただしその多くが「遊民」(はみ出し者)によって占められていたという。

7月末 紅軍ゲリラが湖南省都・長沙および江西省都・南昌を同時攻撃。長沙を攻撃した第3軍団(彭徳懐)は1周間にわたり長沙を占拠。湖南省ソヴェート政府の樹立を宣言。朱徳・毛沢東の第4軍は南昌を攻撃するが甚大な被害を出し撤退。

9月 共産党の6期3中全会、上海で開催。

11月 蒋介石軍、第1回めの囲巣作戦。3ヶ月にわたる。

30年 上海の租界に中国側の特区法院(裁判所)が設置される。租界警察から中国側に政治犯の受け渡しが行われるようになり、向警予、鄧中夏、趙世炎、彭湃、揮代英らが相次いで逮捕・処刑される。

1931年

1月 共産党の6期3中全会、上海で開催。王明、博古(秦邦憲)、洛甫(張聞天)ら「28人のボリシェビキ」(ソ連で教育を受けた若い党員)が中枢を握る。ボスの王明はモスクワに戻り、博古、洛甫が周恩来とともに党を取り仕切る。

4月 2ヶ月にわたる第二次囲巣作戦。

7月 3ヶ月にわたる第三次囲巣作戦。

9月 満州事変の勃発により囲巣作戦が中止される。

9月 寧都蜂起が発生。囲巣作戦に動員された国民党軍1万7千が共産党に寝返る。

11.07 瑞金を首都とする「中華ソヴェート共和国」の建国が宣言される。臨時政府の主席に毛沢東、副主席に項英と張国壽(張国壽は湖北の根拠地鄂豫皖をしきっていた)、軍事委員会主席に朱徳が就任。ただし共産党の序列では王明、秦邦憲らが指導的地位にあり、政府の軍事委員会は党の軍事委員会(書記は周恩来)の管轄のもとにあった。

31年 中国共産党幹部の顧順章、向忠発が検挙され転向。上海の共産党組織は事実上の機能停止に追い込まれる。

1931年

2月 党の元老格で立法院長の胡漢民、蒋介石の方針に反発。蒋介石は胡漢民を逮捕、立法院長の職を剥奪する。

5月 胡漢民派の牙城である広州で反乱発生。これに汪精衛、孫科(孫文の長子)、李宗仁らが合流。「国民政府」の樹立を宣言する。

9.18 柳条湖事件が発生。その日のうちに関東軍が奉天、営口、長春など18都市を占領。朝鮮軍(朝鮮在駐の日本軍)が独断で国境を越え奉天に向かう。

9月 日本製品ボイコット運動により、日本商品の輸入は5分の1に落ち込む(12月実績)。「安内攘外」路線に固執する蒋介石への不満が高まる。

1932年

1.28 第一次上海事変。日本側の謀略により市街戦が展開される。

1月 満州事変を機に広州派が妥協。蒋介石の下野を条件に南京政府に合流。孫科が首班(行政院長)となる。

3.01 「満州国」が建国を宣言。

3月 孫科が退陣。汪精衛が行政院長、蒋介石が軍事委員長の「蒋汪合作体制」が発足する。

12月 宋慶齢、魯迅、蔡元培らが中国民権保障同盟(以下民権同盟)を結成。政治犯の釈放や言論の自由を求める。

1932年

7月 第4回目の囲巣作戦が開始される。国民党中央軍60万人が動員され、9ヶ月に及ぶ長期作戦となる。鄂豫皖の根拠地が壊滅するが、周恩来の指導により本拠地の囲巣作戦の撃退に成功。

10月 共産党の寧都会議。毛沢東は「右傾」を理由に党活動の第一線から排斥される。

1933年

初め 上海を逃れた共産党中央が瑞金に入る。王明は毛沢東の遊撃戦路線を否定。軍事指導権を取り上げる。

3月 蒋介石、日本軍による熱河侵攻を受け、いったん囲巣作戦を中止。

10月 第5次囲巣作戦が開始される。中央根拠地に対し正面だけで40万、後備もふくめ100万の大軍で押し寄せる。

11月 第一次上海事変で日本軍と戦った国民党軍19路軍の一部が福州で蜂起。反将抗日を掲げる福建人民政府を樹立。まもなく蒋介石の攻撃を受け崩壊。

1933年

6月 民権同盟幹部の楊杏仏、蒋介石の私兵集団「力行社」により暗殺される。同盟は活動停止に追い込まれる。

1934年 

4月 瑞金の北100キロの広昌で最大の決戦となる。紅軍は多大な犠牲者を出し敗退。中央根拠地の崩壊は時間の問題となる。

10月 共産党、中央根拠地からの撤退を決定。党中央が瑞金を撤収する。紅軍の基幹部隊である第一方面軍8万人が西方への移動を開始する。(長征そのものの過程については省略)

1935年

1.15 貴州省北部の遵義で中央政治局拡大会議が開かれる。伝説が多すぎるが、結果としては、①毛沢東ら現場の突き上げで秦邦憲(博古)とブラウン(軍事顧問)が指導権を放棄、②周恩来が指導権を掌握、これに張聞天、王稼祥がつく、③周恩来は毛沢東を政治局常務委員に引き上げる。なおこの時点で、秦邦憲は総書記の地位にとどまるが、2月には職を辞し、王稼祥がこれに代わる。