「第三次安保闘争」論について

確かに魅力的な提起だ。それは我々団塊の世代が待ち望んできたものでもあった。80年にも90年にも00年にも10年にも、その波はこなかった。

実に半世紀をかけてそのビッグウェーブが来たのだとしたら、それは血湧き胸躍る瞬間だ。しかし、次に来る波はもっと異質のものではなかろうか。

若者、若者というが、札幌やさらに田舎の町では相変わらず初老の活動家集団が主体だ。(いまや初老とさえ言えないほどの平均年齢70歳軍団だ)

運動のスタイルが「成熟」してきたのは、運動が高度化したのではなく、それを担う主体が「成熟化」したのも大きいと思う。今更ジグザグやフランスデモもないだろう。孫のような警官の指示に唯々諾々と従いながら、成すべきことは成していくというのが老人パワーにはふさわしいのかもしれない。

しかし老人は闘争の息が長いことを知っているから、挫折もしないしあきらめもしない。しつこい事この上ない。

話は変わるが、先日、アメリカ政治を研究する人と話す機会があった。

ちょっと、八つぁん熊さんの会話的に再現してみる。

「それで、オキュパイはどうなったんですかねぇ」

「どうもこうもない。見事に、ウソのように雲散霧消ですよ」

「たんなるファッションだったんでしょうかねぇ」

「あらためてアメリカの草の根保守の底力を見せつけられた思いです」

「例えば、それが公務員労働者の闘争や、パート労働者の最低賃金引き上げに反映されているとはいえませんか」

「うーむ、それはそれでしょうね。少なくともオキュパイをになった青年がそういう運動に関わっているという徴候はありません」

「むしろ、ニューヨーク市長選挙の勝利とかに関連しているかもしれません。彼らの中にはそういう運動のミリタントとして力を発揮できそうな人がたくさんいますから」

「結局、ウエイ・オブ・ライフは変わっていないということですか」

「そうですね。個人の力というのはすごいんですが、集団という論理を持ちにくいのかもしれませんね」

というふうに日米文化論になってしまうと、それ以上の話の接穂がない。

ただアメリカと日本は違うのだ。日本は若者を育てながら組織として成長していく。ただ育てる対象としての若者がいなかっただけだ。もう一頑張りとしつこさが必要だ。若者がメラメラと燃え上がるまで、その下で熾き火を寄せ集めてもう一度吹き起こさなければならないのだろう。

それが我らが世代の「第三次安保闘争」だろうと思う。そして全国で若者が燃え上がったとき、それは第3次などというせこいものではなく、国を根底から揺り動かす未曾有の大運動となっていくだろうと思う。