老人保健施設に居ながら、実はアルツハイマーという病気がよくわからない。恥ずかしながらよく分からずに施設長として医療にあたっている。

世間と老健施設の入所者の痴呆の度合いもよくわからない。(すみません。差別と言われても、この際事態の本質を表わすのには“痴呆”のほうがすっきりしているので、遠慮せずに使わせてもらいます)

老健で仕事していると、痴呆は当たり前で、きわめて生理的な変化のように思えてしまう。もちろん、痴呆にならずに歳を重ねていく人もいる。しかしそのほうがむしろ例外のようにさえ思える。

話は変わるが、痴呆を中核症状と周辺症状に分ける考えは、この疾病の管理における一大進歩だと思う。周辺症状はかなりコントロールできる。それだけでもありがたい話だ。肝心なことは、このことによって認知症が厄介な病気だという世間の誤解が随分解けたことだ。その後に残るのは生活障害だけなので、これはマンパワーによるアシストでなんとかなる。ただ向精神薬というのは諸刃の刃で、下手をすれば痴呆そのものを進展させる。この辺の見極めはなかなか難しい。

たんなるオーバー・ドーシスの可能性もある。逆に薬剤の投与量が不十分だったりすることもある。また向精神薬がベースとなっている内科疾患に影響を与えるということもある。医者は往々にしてやり過ぎの傾向があるが、現場のスタッフは逆に薬剤に対して抵抗する傾向がある。こちらにはそれを説得するほどの経験も知識もない。だからやることが中途半端になっている可能性がある。

なぜ、このような矛盾した状況が出現するのか。それはとくに家族の影響である。「なんとかしてくれ」と泣きついてくるが、「なんとかなる」と、「それ以上はしないでくれ」ということになる。

家族へのムンテラの際よく使うセリフだが、どんな人でも加齢の重みが全てに優るようになる。経験的にはその境目が90歳だろうと思う。

人間の半分は85歳まで生きている。85歳の人は昭和5年の生まれだ。死ぬ理由は随分あった。冷害もあったし、結核もあったし、戦争もあったし、戦後の食糧難や伝染病もあった。その人達まで入れての平均寿命だから、それを生き延びた人の平均寿命は90歳近いのだろう。

ところが、今日珍しくないとはいえ、100歳まで生きるのは相当厳しい。つまり昭和5年におぎゃあと生まれた人の半分は今まで生きている。しかしその半分の人達はこれから15年の間に死に絶えるのだ。それは紛れもない運命であり、すさまじい消耗率なのだ。

このすさまじい現実を前にして、痴呆かどうかなどはたいした問題ではない。それで死ぬわけではない。認知症専門のフロアーまである施設の長として、まことに不謹慎ではあるが、老人問題の主要なテーマは痴呆ではないと思う。私が考えるには老人問題の根っこは低栄養(特に低アルブミン)だ。その根っこは貧困とメディアの誤った宣伝にある。

社会が高齢化すると医療・介護費が上がっていくように宣伝されている。たしかに絶対値としては上がるだろう。しかし高齢化は元気で働ける世代の増加でもある。かつて社会の世話になって生活していた世代が、今や社会に貢献する世代となっているのだ。そういう人たちを増やしていくことが世の中の進歩である。

昭和40年代、医者になりたての頃、癌は即死亡宣告だった。脳卒中は半身不随、寝たきりの垂れ流しを意味していた。医学が進歩すれは疾病像は変わる。アルツハイマーも生活スタイルが変われば、いずれ減っていくはずだと思う。最大の課題は老人に見合った代謝・栄養学の改革にあると思う。

以上があまりまじめにアルツハイマー病の勉強をしてこなかった言い訳である。とはいえ、そろそろ、それなりに勉強しなくてはならないな。