1931年

1月 中国共産党、上海で六届四中全会。瞿秋白は中央指導者の職務を解かれる。同時に李立三路線も厳しく批判され、王明(陳紹禹)と博古(秦邦憲)らによる武力対決路線が開始される。

31年3月

3月 第二次囲剿。動員兵力20万人。蒋介石の右腕といわれる何応欽軍政部長が総司令となる。

3月 汪精衛が広東に国民政府を樹立。蒋介石に反発する軍閥勢力が連合。

5月 関東軍の石原莞爾参謀、武力による「満蒙問題」の解決を主張。満州国建設の計画を主導する。

7月 第三次囲剿。動員兵力30万人。蒋介石みずからが総司令となる。この囲剿戦は満州事変の勃発により中断。

共産党軍は毛沢東の「深く敵を誘い込む」作戦により、政府軍に打撃を与える。「根拠地」は拡大し湖南省境から江西南部、福建西部が解放された。紅軍の勢力は4万人から30万人に拡大した。

 

31年9月

9月 柳条湖事件が発生。関東軍は「暴戻なる支那軍」を打ち破るため軍事行動を開始。

9月 満州事変勃発。満州軍閥の張学良は全軍に撤退・不抵抗を指示。蒋介石軍は第三次囲剿で軍を割く余裕はなく日本軍の行動を傍観。

9月 中国人民の抗日運動が発生。上海では学生10万人、港湾労働者4万人がストに入る。20万人の抗日救国大会が開催され、対日経済断交を決議する。北平(北京)では20万人の抗日救国大会が持たれ、市民による抗日義勇軍が結成された。

9月 満州を除く中国全土の日本商品輸入は前年対比1/3、12月には1/5にまで低下、 上海では対日輸入がほとんど途絶、日本商船を利用する中国人の積荷は皆無となった。

31年10月

10月 日本軍、張学良の本拠とする錦州を爆撃。

11月7日 江西省南部の瑞金で「中華ソビエト共和国臨時中央政府」が樹立。毛沢東が自ら主席となる。最盛期人口1000万人程度の小さな政府であったが、はじめて「人民権力」の創出を実現した点で歴史的である。

12月 蒋介石と汪精衛広東国民政府とのあいだに妥協成立。蒋介石は一時下野する。南京新政権の主席には林森。

 

1932年

1月 「上海事変」が勃発。上海の日本人僧侶への襲撃事件を口実にして、日本軍陸戦隊が上海付近を軍事占領する。関東軍高級参謀大佐板垣征四郎が上海日本公使館付き武官少佐田中隆吉に依頼して起こした謀略事件とされる。

2月 蒋介石が復帰し、最高軍事指導者となる。

2月 関東軍、ハルピン占領。満州全域を軍事占領下に置く。

3.01 「満州国」が建国される。清朝廃帝溥儀が執政に就任。

4月 瑞金の中華ソビエト共和国臨時政府(主席・毛沢東)対日戦争宣言。

5月 上海事変に関して上海停戦協定調印。

6月 蒋介石、第4次共産分子囲剿戦開始。動員兵力は過去最高の50万人に達する。

10月 共産軍は劣勢に立たされ、毛沢東は軍の指揮権を剥奪される。

32年 宋慶齢、魯迅、蔡元培らが中国民権保障同盟を設立。国民党の特務統治に反対し、愛国民主抗日活動を積極的に展開、国共合作を支持する姿勢を明らかにする。

 

1933年

1月 共産党、国内停戦と対日共同抵抗を呼びかける。

1月 中国共産党、本部を上海から瑞金に移す。王明らのコミンテルン派(ソ連留学生グループ)は瑞金政府の指導権を掌握。毛沢東、鄧小平らの毛沢東派を厳しく批判。

コミンテルン派は「都市労働者中心のソ連型革命」を主張、これに対し毛沢東派は、農村に根拠地を作って都市を包囲する路線を主張。統一戦線論においては、コミンテルン派がプロレタリアート独裁路線、毛沢東派はブルジュアジーを含む広汎な民族統一戦線を主張。

2月 日本軍熱河侵攻。蒋介石は第4次囲剿戦の中止を余儀なくされる。

5月 塘沽協定締結。関東軍と国民党政府との間に結ばれる。国民政府は満州国の国境を承認。

10月 蒋介石、兵力100万人、空軍200機を動員し第5次共産分子囲剿戦開始。コミテルンから派遣された軍事顧問リトロフ (オットー・ブラウン)は正規軍による正面対決路線をとった。紅軍の拠点は次々と陥落、ほとんど壊滅状態となる。

10月 19路軍を中心に、反蒋抗日を掲げて福建人民政府成立。王明主導の共産党中央は「第三勢力」として連帯せず。

 

1934年

1月 上海で魯迅らとともに文芸戦線運動を続けていた瞿秋白、当局の手を逃れ瑞金に入る。要職にはつかず。

5月 宋慶令ら2000人の著名人が「中国人民対日作戦基本綱領」発表。すべての中国人民が武装蜂起して、日本帝国主義と闘うことを訴える。

10.18 壊滅寸前の紅軍主力(第一方面軍)が包囲網を突破して瑞金を脱出。その後1年間にわたる1万2000キロの「長征」が開始される。8万6000人が長征に加わり、残り約3万人は陳毅・項英の指導の下山岳地帯のゲリラ戦に入る。

 

1935年

1月 長征の途上貴州省遵義で、共産党中央政治局拡大会議が開かれる。王明らのコミンテルン路線が批判され、独自派の指導部が確立する。総書記にはソ連留学生派の張聞天が就く。毛沢東は政治局常務委員(軍事担当)となる。

1月 張国壽らが「敗北主義と解党主義」を唱え、長征軍から離脱。

2.24 瞿秋白、病気のため長征に同行せず、香港ルートでの脱出を図ったが、政府軍に捕らえられる。6月18日に処刑される。(秋白は、自分のような半人前の文人が政治に関わり、あまつさえ党の指導者となったことは、完全なる「歴史的誤解」であったと述べている)

8.01 中国共産党と中国ソビエト政府が、「抗日救国のために全同胞に告げる書」(8・1宣言)を発表。「すべてのものが内戦を停止 し、全ての国力を集中して抗日救国の神聖なる事業に奮闘すべきである」とし、全中国を統一した国防政府と抗日連軍を組織するよう訴える。

8.19 長征軍内で指導権が移動。毛沢東が周恩来に代わり軍事上の最高指導者となる。

10月 長征軍(第一方面軍)、呉起鎮(陝西省)に到着。8万6000人で出発した長征軍は8000人に減少するが、第二方面軍、第四方面軍と合流し4万人に達する。

12月9日 北平(北京)の学生5000人が「日本帝国主義打倒」「華北自治反対」を叫んでデモ行進。宋哲元の軍隊がこれを弾圧する。

12月16日 さらに1万人がデモ行進。軍隊・警察と衝突。

1936年

36年 モスクワの王明、中国左翼作家連盟の解散と中国文芸家協会の結成を指示。これに対し上海の魯迅、胡風、茅盾らは「中国文芸工作者宣言」を発し、「民族革命戦争の大衆文学」のスローガンを提起。上海文化界は激しい論戦に巻き込まれる。

36年10.19 魯迅が死去。上海の文芸界は「団結と自由の宣言」を出し、統一を実現。