「真の民主主義経済を経て社会主義をめざす」

軍政の打倒に成功した民主勢力も、経済的苦境と対外債務に対する有効な処方箋を持っていませんでした。むしろ国家に対する“たかり”の構造が前面に 出てくる最悪の経過になりました。IMFが国民生活を無視して病人の布団まで剥いでいくような悪辣な取立をしたことは非難すべきですが、市場経済原理に 沿ったオーソドックスな経済・再生計画の実行と、国家のスリム化は避けて通れない課題でもありました。

外貨不足が物不足を呼び、これに投機も加わってインフレが悪性化します。この年、1年で4854%という史上初めての物価上昇率となりました。こうなればネオリベラリストでなくてもサプライサイドをいじらなければ問題が解決しないことは明らかです。

ヘテロドックス・プランの失敗: クルザード計画以来のIMF路線によらない物価安定計画はすべて失敗した。この経過を通じて以下の点がエコノミストの共通認識となった。
① 物価・賃金の凍結策や預金凍結など金融業務への介入は有害無益であることが明白になった。②海外、特にドルとの関係を無視しては経済マクロの調整は不可能 であることが明らかになった。その調整は変動相場+金利調整か、変動金利+ドル・ペグしかない。③対外債務が膨らみ続ける構造は、財政赤字に起因する。財 政赤字は政府・国営企業の人件費にある。特に年金制度、非能率な国営企業について早急に改善しなければならない。
また、勝手にでっち上げた「
インフレ指数」に合わせ価格・賃金を調整するインデグゼーション(指数化)の習慣も改めなければならない。

コロールの打ち出した政策はいわゆる「ショック政策」でした。彼は変動相場制を廃止し、ドルとリンクさせようとしました。そのために通貨発行量を3分の1に減らすという荒療治です。同時にIMFなどの外圧も利用しながら、従来聖域とされてきた分野にも「改革」の手を伸ばします。

コロールの最大の功績は軍事費の削減でしょう。87年にはGDP比0.9%だった軍事費は1/3の0.3%にまで削減されました。これは中道派や左派政権には絶対出来なかったと思います。右翼の代表だからこそ、左翼に薄氷の思いで勝利した大統領だからこそ、軍は「ならぬ堪忍、するが堪忍」と耐えたのだと思います。

軍に対してさえこれだけのことを要求したのですから、ほかの分野ではさらにきつい。就任早々、「60日以内に公共労働者35万人を解雇する」と宣 言.国策企業の象徴とされたウジミナス製鉄所も売却されました。国営工場では数千単位の解雇を発表します。これが80年代の「失われた10年」から「絶望 の10年」への路程標となりました。同じ頃にペルーではフジモリが、アルゼンチンではメネムが同じような政策を打ち出しています。

もちろん労働者はこれに対して激しく抵抗し、さまざまな闘いを展開したのですが、コロールのショック政策に対して有効な対案を打ち出すのには、考え方の整理が必要でした。PTは全国大会の激しい議論を経て、「真の民主主義経済を経て社会主義をめざす」綱領を確定しました。

これは、それまでの資本主義から直接社会主義を目指す戦略とは大きく異なっています。経済民主主義の実現を当面の課題とする提案は、大会に引き続きラテンアメリカの左翼48組織が参加するサンパウロ・フォーラムでも議論されました。そこでは、新自由主義経済政策に反対する とともに,その政策が生みだす矛盾へ対応していくことを当面の目標とする決議が採択されました。これは理論的には大きな前進ですが、「真の民主主義経済」への階級的視点が曖昧で、独占資本や大企業に対する幻想と、一種の敗北主義を伴っており、その評価には慎重でなければなりません。

この前進がソ連・東欧諸国の崩壊という事態の中で勝ち取られたものであることも銘記すべきでしょう。同じ時期にモスクワ派の共産党は「共産党としての活動を停止する」と決議しています。この党は党名を社会主義人民党(PPS)にあ らため、今も活動していますが、ルーラを右から攻撃する政党になっています。もう一つの共産党は大会で「社会主義は生きている」(O Socialismo Vive! )をスローガンに掲げました。この党はブラジル左翼の主軸となり、とくに学生層内に影響力を広げています。

 

コロール弾劾運動

その後、コロールと取り巻きの不正蓄財が明らかになり全国的な抗議行動に発展していきます。これは84年の直接選挙運動に比肩するほどの盛り上がりになりましたが、特徴的なのは80年代末まで必ず登場した軍隊がまったく顔を出さなくなったことです。

思想信条から言えばコロールを支援すべきでしょうが、軍の財政に大鉈を振るった張本人ですから面白くなかったのかもしれません。それに何よりも、「もうそういう時代ではなくなった」という認識が広まっていったのでしょう。

92年末、ついにコロールは辞意を表明しますが、議会はかまわず弾劾の審議を続け公職追放を確定します。これにより長らく続いた民主化の闘いは一応の決着を見たといえるでしょう。

 

カルドゾの登場と、ルーラの苦杯

コロールの退陣とともにショック政策も終焉を告げ、ふたたび泥沼の物価上昇が始まりました。これをとりあえず終焉させることに成功したの が、フランコ大統領のもとで蔵相を勤めたカルドーゾです。カルドーゾはレアル・プランと言う物価安定策を実施し、天井知らずのインフレを沈静化させること に成功しました。それと同時に財政赤字もGDPの4.5%を切る水準に縮小します.

レアルプランというのは一種の兌換制度の復活であり、金の代わりにドルを当てるということです。しかしいまどきこんなことをすれば、縮小均衡が実現 する頃には国民の半分が野垂れ死にしてしまいます。そこで従来の通貨はそのままに、ドルと等価のURVなる“貨幣”を導入して当分は二重通貨制とすること にしました。

しかしそれで通貨発行量が増えるわけではありません。ドルを確保するためには外貨を高金利で呼び込む必要があります。また通貨の為替レートを高めに維持する必要があります。

ただしこれは一種の緊急避難政策であり,これによりインフレを押さえ込んでいる間に,根幹原因となっている公共財政の抜本改革を実現するのが本来のねらいです.レアル高と高金利、大幅な輸入超過を続ければどうなるかは、火を見るより明らかです。

ともかく難題の経済・財政・物価問題を解決したカルドゾに国民の人気は集中します。財界や保守派は、94年の大統領選挙で、勝利が確実と見られた ルーラを阻止するための切り札として、カルドーゾに白羽の矢を立てました。カルドーゾは元々は左派の経済学者で、クーデターのあと弾圧を逃れチリに亡命し ていました。体制内野党PMDBに属していましたが、党内右派と袂を分かちPSDBを創設した人物です。

対するルーラは、人気はありましたが、その経済政策には不安が付きまとっていました。カルドーゾは右派との連携を受け入れ、ルーラの対抗馬として出馬します。カルドーゾの人気は日を追うごとに高まり、終盤でついにルーラを抜き去ります。

しかしカルドーゾの勝利は、必ずしも保守派の勝利とはいえません。同時に行われた国会選挙では、労働党が得票を1.5倍に伸ばし躍進します。PCdoBもルーラを支持して下院議員を5人から10人に倍増させました.

 

カルドゾ政権の「構造改革」がもたらしたもの

ブラジルのインフレ率は93年の2447%から22.4% にまで低下しました。経済マクロの安定化は、海外資金流入のブームをもたらします。繰り返しますが、これは一時の話でツケを先回しにしているだけなのです が、それでもブラジルにとっては20年ぶりの貴重な息継ぎでした。

この間にカルドーゾは公共部門のスリム化を矢継ぎ早に実行します。国営電力会社は17億ドルで民間会社に払い下げられ、国有鉄道、通信事業、石油産業の民営化も開始されました。さらに97年に入るとカラジャスの鉄鉱山の株51%を売却すると発表しました。カラジャス鉱山は世界の鉄鉱石の25%を生産し、さらに400年採掘可能とされるブラジルの最大の財産の一つです。

これにはサルネイとフランコ元大統領、ルーラ大統領候補がいずれも絶対反対の態度を表明しました。裁判所も差し止め決定を発します。しかし政府はかまわず国営鉱山会社を推し進めようとします。

こうした無理はいつかは痛烈なしっぺ返しとして跳ね返ってきます。ひとつは内債累積問題で す。高金利により連邦や州・市の債務が膨れ上がりました。とくに州政府の債務が深刻なものとなりました。もうひとつは国内産業の衰退が失業率と貧富の差拡 大に拍車をかける結果となったことです.統計局調査では,レアル計画発効から4年間で雇用が24.3%減少するというすさまじさです.

何よりも、この間の経済体制は大幅な貿易赤字を外資の流入で帳尻合わせしていただけなので、きわめて脆弱なものでした。これが97年の金融危機で暴露されることになります。

7月にアジア金融危機が始まると、国際資金は「質への逃避」とよばれる現象を引き起こしました。金利よりも安全を求めて米国債に向け大量に移動を始めたのです。レアル高の根拠は突き詰めれば高金利しかないので、政府はさらに金利を上げることで対応するしかありません。基準金利は20%から43%というとてつもない数字に引き上げられました。

しかし本当の危機は翌98年8月にやってきました。今度はロシアでの金融危機が飛び火したのです。アジアのときはたんなる安全志向だったのですが、今回は国際金融機関が切羽詰っていました。

ロシア危機がブラジルに飛び火した理由: ロ シア国内短期国債や株式を大量に購入していたヘッジ・ファンドなど欧米系金融機関は,多額の損失を蒙る.キャッシュ不足に陥ったこれらの金融機関は,損失 の穴埋めのため中南米の株式、債券や米国ジャンク債などの高リスク資産を一斉に圧縮し現金化.この結果巨額の資金が流出する事態を迎える.

9月の一ヶ月間に215億ドルの外貨が国外流出しました.外貨準備は700億ドルから450億ドルに減少しました。レアル・プランというのは外貨準備により通貨発行高が決まるわけですから、これではたまったものではありません。

株価は40%を超える下落、市中銀行への貸出金利は事実上の貸し出し停止に近い金利50%に達しました。末端金利は年間150-250% に達したといいます。しかしブラジルはつぶすには大きすぎました。ブラジル金融危機は、大量の投資を行っていた米国大手金融機関の危機をもたらしました。米財務省とIMFは新たに融資枠を設け,ブラジルに400億ドルの資金をつぎ 込みました。

 

反カルドーゾ勢力のスティグマ

こうした中で94年10月、大統領選挙が行われました。意外といえば意外ですが、国民の支持はカルドーゾに集中しました。カルドーゾは53%の得票率を上げ,第1回投票で再選を決めました.いっぽうで野党連合のルーラは32%にとどまりました。経済が困難を迎える中で、国の行く末をカルドーゾに託したのでしょう。また逆に言えばルーラ恃むに足らずと判断したのでしょう。

これは労働党にとって深刻な問題でした。カルドーゾ政権に対決するのは良いのですが、それに対する有効な代案を提示できなければ、政権交代の意味がありません。とくに深刻な争点となったのが、公務員の年金削減問題でした。

一般的には年金削減は庶民の生活を直撃し、景気の足を引っ張る悪法ですが、ブラジルの公務員年金はそうとばかりはいえない特権的な色彩を帯びていま す。民間よりも公務員の方が年金支給額が高いのは日本と同じですが、違うのは多くの公務員が50歳で退職し、現役最後の給与額をそのまま年金として受け 取っていることです。その結果、国家財政に対する比率は教育、医療、警察などよりも大きく、公務員年金の赤字額はGDPの5%にまで達していました。

もうひとつが地方行政不の生み出す赤字です。各州は連邦政府から借り入れを行うだけでなく、独自に外債も発行していました。そのひとつミナスジェラ イス州は99年初め、債務モラトリアムに陥りました。連邦政府に対する債務150億ドル、ユーロ債2億ドル、対米債務1億ドルが焦げ付きました。州知事は 償還を90日間凍結すると宣言、これに野党が握るほかの州も追随します。

結局連邦政府にすべての責任をおっつけようということです。モラルハザードを野党指導者が推進するのでは話になりません。

このミナス州知事発言は第二の財政危機の引き金となりました。IMFとのコンディショナリティを遵守できないとの懸念から、ふたたび大量の資本流出が始まりました。1日で30億ドルが国外流出したといいます.レアル建て国債はジャンク債並みの「シングルB」に落ちました.累積対外債務は2千億ドルを超え,単年度支払い義務は900億ドルに達しました.

ついに政府は通貨切り下げに踏み切りました。レアル・プランのシステムは、軟着陸の機会をもてないまま崩壊していきます.

しかしここでも「つぶすには大きすぎる」との判断が働きます。ニューヨーク市場はブラジル金融危機をきっかけに前日比261・58ドル安と暴落し、欧州株式市場も全面安の局面を迎えたのです。結局IMFはブラジルと心中するしかない羽目に陥りました。

連邦政府はIMFその他と協議の末、ミナス・ジェライス州の外債の半額を,肩代わり返済することになります。連邦政府は州の預金を差し押さえ、原資に一部補填しました。同時に,ミナス州への交付金を凍結するなど法的な対抗措置を発動しました.

率直に言って、非効率な国営・公営企業、特権的な公務員年金、州政府の財政ガヴァナンスの欠如という野党勢力の抱える三つのスティグマは、自力で解決することはできず、経済・金融危機という外圧の下に強制的に整理されたことになります。

 

 

カルドーゾの「後継者」として立ち位置を定めたルーラ

 コーポラティズム(組合主義)といい、ネポティズム(縁故主義)といい、闘う主体にはつき物の厄介なトラブルをカルドーゾの時代に一気に片づけました。近代資本主義への脱皮にはこの過程は必然であり、ロストウの言う「近代国家としての離陸」には不可欠の条件です。

労働党は基本的にはこのカルドーゾの改革を受け継ぎました。さらにドルを基軸通貨とする市場経済の枠組も受け入れました。近代化と国際化を受け入れ ることは、ネオリベラリズムを受け入れることと同じではないということを明確にし、ふたたび闘いに立ち上がることになったのです。

それは多くのブラジル国民の合意でもありました。カルドーゾ自身が次のように語っています。

我々は世界決定を管理する機構に関して未だ規則を決めていない.しかしそこでは,恐怖に頼らず,非対称でなく、平等かつ貧困の少ない,世界の誰もが望むグローバルな秩序を実現しなければならない.
文化、経済、技術、軍事に関して傑出した国が、何かと注意を促し、従わない場合は更に強力なG7に持ち出し、自説を全世界の世論のように強要する。一方的に言い分を押し付け、是非を強制するのは交渉ではない。

すでにカルドーゾのレアルプランは完全に破綻し、変動相場制と資本の自由化、レアル安を受け入れざるを得ないことは自明の前提となっていました。そ の中で経済の回復を図るためには、レアル安を利用して輸出を振興し、貿易不均衡を正すこと、財政を身の丈にあわせて縮小せざるを得ないことも明らかです。

これらの当たり前のことをやりながら、ネオリベラリズムとどう闘って行くかが焦点となってきます。まさに「真の民主主義経済を経て社会主義をめざす」路線が切実な課題となったのです。

 

ルーラ当選への道

2000年の末に行われた地方選挙で、労働党は前回比5倍の得票を獲得し躍進しました.相次ぐ金融・財政危機の中で影響力を失ったカルドーゾ政権に代わり、ふたたび労働党が明日のブラジルを担う主役として登場しました。

労働党大会では、新自由主義との決別を目指した綱領が採択されました.一方で,対外債務・農地改革・外資の参加などについて,柔軟な対応をとることも確認されました。

労働党への攻撃も激しさを増していきます。アムネスティは,労働者党活動家に対し97年以降,70件の死の脅迫,16の不審死があったと報告しています.

選挙を4ヵ月後に控えた02年6月、突如として国債相場が暴落します.ついで資金の国外流出が急加速し、レアルは1カ月で2割近い急落をみせます。米財務省はIMFと協調して400億ドルの緊急融資を行いますが、IMFは融資の条件として、各候補に対して従来の経済政策の維持を要求しました.

これは明確なおどしです。ベネズエラのチャベスに対するクーデター事件と、時期的には完全に一致しています。ルーラはこの要求を呑みます。しかしこの経過の中でルーラ候補の支持率は急下降。これに代わりカルドーゾ後継候補の支持率が上昇し、一時はルーラと肩を並べるまでに至ります。

 

ルーラの大統領当選

しかしそれでもルーラの優勢を覆すには至りませんでした。10月末の決選投票のすえ、ルーラは60%の得票を得て勝利しました。労働党とともに闘った共産党は全国では2.3%でしたが、ブラジリア連邦区で13%、バイアで17%、サンパウロではワグネル・ゴメスが350万票を獲得するなど健闘します。

ルーラは最初の施政演説で、雇用の促進と農地改革,社会福祉部門の統合と拡張,所得格差の改善などを公約しました。経済については現政権の経済を引き継ぐとしました。

四つの基本政策 調印した契約は守り,インフレをコントロールし,財政の緊縮は継続する(これはIMFとの協定は守るとの意味).
②飢餓を撲滅するための社会緊急局を創設する. ③雇用創出のため土木建築と上下水道設備の建設を奨励する. ④輸出製品の付加価値の引上げを通して貿易黒字を拡大する(輸出の振興をする).

同時に「飢餓対策が新政権の取り組む最初の課題」とし、全国民が3度の食事が取れるようにすることを約束。当面する緊急対策として、食料品クーポン配布計画 (PCA)と学校給食の完全実施,サンパウロ等で実施されている官営低価格食堂の他地域への拡大などをあげました。

 


この後のルーラ政権の動きについては、いずれ稿を改めて検討したいと思いますが、いろいろ評価も分かれており、時間がかかるのではないかと思いま す。ただブラジルがこの間経験してきたこと、学んできたことは多いと思います。市場経済とグローバリゼーションに対して、いかに受け入れいかに拒否してい くかということを、変革の課題として主体的に受け止めることが重要だと思います。