1799 村上島之允の従者として初めて蝦夷地に渡る

1800 普請役雇となる。函館において伊能忠敬と師弟の約を結ぶ

1803 東蝦夷地、南千島の測量に従事する

1805 天文地理御用掛として蝦夷地日高のシツナイに勤務する

1806 エトロフ島に渡り、沿岸実測、新道開発に当る

1807年4月 フヴォストフの船が択捉島の沙那会所を襲撃。会所を放棄して退去するが、徹底抗戦を主張した事実が認められ、お咎めなし。

1808年 松田伝十郎と間宮林蔵の探検

間宮の著した「東韃地方紀行」で足跡をフォローする。

http://www1.tmtv.ne.jp/~hsh/D82-mamiyarinzou.htm

間宮道程

4月13日 第四回目の幕府調査。宗谷会所で調役下役をつとめる松田伝十郎が、カラフト奥地、山丹見分の命を受ける。松前奉行所は松田の下役として間宮林蔵を派遣する。

松田と間宮、シラヌシ到着。松田は西海岸を、間宮は東海岸を北上することとなる。

5月 間宮、多来加(タライカ)湖畔に到着。

間宮、シャクコタン(柵丹)まで進み、アイヌに舟を引かせて五町(545メートル)ほどの砂原を横断、北知床半島の東海岸に出る。そこでこれ以上の北上は困難と判断。(理由不明)

間宮、シャクコタンから再び南下し、最狭部である真縫(マーヌイ)から樺太山脈を山越えして、西岸(久春内)に出た。

多来加

多来加湾地図 おそらく北船越というところで半島を横切ったのであろう。シャクコタンは可雁のことか? 柵丹は知取の近くの集落であり、だいぶ南のはずだが

6月20日 西海岸を北上し、ノテトで先行する松田と合流した。ノテトは、スメレンクルと呼ばれているギリヤーク(ニヴフ)人の村落。近くにはオロッコ人も住んでいた。

松田と共に北緯52度、樺太最西端のラッカ岬に至る(一説にナッコ岬)。この岬以北で海峡幅が広がっていくのを望見。樺太が島であるという推測を得た。ここに「大日本国国境」の国境標を建てる。

6月26日 松田と間宮、ノテトをはなれ帰途につく。

7月13日 松田と間宮、宗谷に帰着。奉行所に報告。松田は江戸に報告のため出発。間宮はさらに奥地への探索を願い出る。(一説に、宗谷滞在中の松前奉行河尻春之が、間宮林蔵の樺太東海岸調査は不十分として再調査を命じたとある)

7月 間宮、当局の許可を得て単身樺太へ戻る。図合船に便乗して宗谷を出発。西海岸のトンナイに至る。

トンナイは後の真岡とされているが、眞岡はアイヌ人からはエンルンコマナイと呼ばれ、厳密にはトンナイとは異なる。

9月14日 間宮、トンナイからトッショカウまで進むが、時期的にこれ以上の北上は困難と判断しトンナイに戻る。

1808年 高橋景保、「北夷考証」を発表。松田伝十郎の報告をもとに、カラフトとサガリンを同一島とする。

1809年

1月29日 間宮、雇のアイヌたちとともにトンナイを出発。奥地へ向かう。ウショロで雪解けを待つ。

4月初め ウショロから陸路2日でリョナイに着き、船で北へ向かう。

4月9日 リョナイから255キロメートル北のノテトに到着。

5月12日 間宮林蔵、ノテトを出発。海路でラッカに達する。ノテトから北に98キロのユクタマーで、アムール河の河口を正面からながめる。さらに北進。

樺太北端に近いナニオー岬まで至り、北側に広大なオホーツク海が広がっていることから、樺太が半島ではなく島である事を確認した。(これをもって間宮海峡の発見とする見解がある)

6月 幕府、カラフトを「北蝦夷地」と唱えるべき旨を命じる。

6月26日 間宮林蔵、ノテトに戻る。ここで間宮海峡の対側の東韃靼に設けられた清国デレン仮府の存在を知る。

酋長のコーニは清国仮府からカーシンタ(郷長)という役人の資格をあたえられていた。このとき貢物や交易品などを山丹船に積み込みデレンに向かう予定だった。間宮は随行を頼み同行を許される。

6月26日 間宮、サンタン船でノテト崎を出発。6日をかけて対岸に到着。その後黒竜江を遡る。

razarehu

間宮海峡に面したラザレフの岩山からは、幅約7キロの海峡越しにサハリンが見えた(蝦夷錦の道「北のシルクロード」——間宮林蔵が見たものより転載)

7月11日 間宮林蔵、デレンに到着し清朝の現地責任者と会見。その後ノテトに戻る。(8月2日説もある)

林蔵の記録によると、デレンは一辺25メートルほどの四角の敷地を二重の柵で囲い、中に清朝役人が毛皮を徴収する小屋があった。それを取り巻くように常時500人もの諸民族が集い、仮小屋に泊まりながら毛皮や食料などの物品を交換し、大いににぎわっていた。 とは言うものの、絵を見る限りかなり粗末な作りで、恒久的なものとは思えない。デレンは仮府を表わす一般名詞の可能性もある。

デレン

間宮林蔵が記録したデレンの写生画(蝦夷錦の道「北のシルクロード」——間宮林蔵が見たものより転載)

9月15日 真宮、白主に戻る。さらに9月末には宗谷に入る。

11月 間宮、松前に帰投。松前奉行所に出頭し、以後報告書の作成にあたる。

1811年2月 江戸にて『北蝦夷島地図』、『北夷分界余話』(ウィルタ、ニヴヒをふくむ樺太の地誌・民俗誌)、『東韃地方紀行』(黒竜江下流地方の見分)の三部作を完成、幕府に提出した。

1811年4月 松前奉行支配調役下役格に昇進。伊能忠敬から緯度測定法を学んだうえ、蝦夷地に向かう。

1822 10年におよぶ蝦夷地の測量を終え江戸に帰る。この時43歳。