インターネットの発展を恨みたくなる。樺太関連で芋づる式に資料が出て来て整理がつかなくなっている。
さしあたり、最上徳内と間宮林蔵については別年表を作らないとダメなようだ。

まずは最上徳内

最上徳内

1785年(天明5年) 1回目の蝦夷地探索。幕府の蝦夷地調査団の東蝦夷探検分隊に参加。

老中田沼意次がロシアの南下への対策として蝦夷地探検隊を組織。山口鉄五郎・庵原弥六・佐藤玄六郎・皆川沖右衛門・青島俊蔵の5人が普請役となる。農民上がりの最上は、竿取りという低い身分で参加する。

1785年 最上、国後訪問などの行動で頭角を現す。

1786年 2回目。幕府普請役・青島俊蔵の下で国後に駐在。(“青島俊藏は元松本伊豆守の家来にて平賀源内と云ふ儒者の弟子”だったそうだ)

蝦夷地巡検使の行動経過

4月 蝦夷地巡検使の東班(山口、青島、最上)と西班(庵原、佐藤)が松前を出発。

6月 西班、宗谷に至る。庵原は樺太に渡り、白主を起点に東岸は約三十里、西岸は約六十里ほど検分。

8月 西班の佐藤、宗谷からオホーツク海岸を進む。

8月 東班、国後に至る。択捉への前進はならず松前に戻る。

10月8日 西班の佐藤、山越えし厚岸に到着。その後松前に戻る。

1787年

3月 樺太から戻り宗谷で越年中の庵原が病死。

3月 東班先発の最上、厚岸に到着。イコトイの手船に乗つて国後島のイショヤに着く。

4月 最上、択捉(ヱトロフ)島にわたる。

5月 大石逸平、庵原の後任として樺太に入る。名寄(ナヨロ)まで到り、7月に宗谷に帰る。

5月 最上、択捉の内保村に到着。同島北端のシャルシャムに到る。ここで遭難・漂着したロシア人3名と知り合い、情報を交換。

滞在中のロシア人はイジョヨ(イジュヨゾフ)・サスノスコイ・ニケタの3人であった。他に日本人はいなかった。

5月 青島、山口も択捉に至る。(これは怪しい。国後の間違いではないか)

6月 最上、ロシア人を伴い国後に引返し、泊の運上屋に託す(ロシア人を青島俊蔵に紹介したとの記述あり)。その後択捉に戻り、さらに得撫(ウルップ)島モシリヤに渡り、島の北端までを極める。

その後松前藩に警戒され蝦夷地に入れず。公職も失い、青森野辺地で家庭を持つ。

其秘かに奥へ下りし仔細(しさい)を後に聞けば、是二度目の渡海にして、松前へ渡り、秘かに縁を求めてヲロシヤ国へ渉海せんとの心懸なり。
其訳いかんとなれば、先にヱトロフ島へ渡りし時、ヲロシヤの人シメヲン・トロヘイと云ふ者に秘かに彼国の御朱印と云ひつべきものを二枚もらひ請けたり。是を所持する時は、ヲロシヤ国の支配の国々へ到れば心の赴く方へ行くこと甚だ易しとなり。
故に徳内は秘かにヲロシヤの帝都に到り、彼国の地理を巡覧し、其後彼(かの)帝都の出張会所の紅毛人を頼み、又紅毛の人に交りてヱイロウハ洲を巡覧し、それよりリモア洲、アジア洲の国々島々を悉く巡覧して、後に長崎の港に帰帆(きはん)せんとの下心なりと云ふ。徳内が大胆豪傑なる気質は此等を以て考へ知るべし。

1789年 3回目。国後・メナシの反乱後、幕府の調査団(団長 青島俊蔵)に加わり蝦夷地入り。宗谷など西蝦夷方面から東蝦夷方面を回る。

1789年 江戸帰参後、アイヌとの交流などが問題視され投獄される。青島は獄死。

1790年 無罪放免となる。

1790年 『蝦夷風俗人情之沙汰付図』を著す。ロシア人とアイヌ人から得た千島情報を地図とともに文章化したもの。

1791年 4回目。幕府の普請役となり、アイヌの待遇改善状況を調査するため蝦夷地入り。クナシリ、エトロフからウルップ北端まで探索。その間、アイヌに対して作物の栽培法などを指導したという。

1792年 5回目。樺太調査を主に蝦夷地入り。カラフトの地理的調査や、和人やロシア人の居住状況を調査。松前藩の不正についても内偵したらしい。

1792年 そのまま松前で越冬し、ラクスマン訪問への対応に加わる。

1798年(寛政10年) 6回目。松前藩から東蝦夷地が召し上げられる。「異国船見届け」のため御書院番頭松平忠明らが渡海するに際し、その手先となる。

1798年 幕府が大規模な千島調査。幕臣近藤重蔵が団長となる。東蝦夷調査中の最上は、近藤の要請を受け、国後で探検隊に合流する。(近藤は最上に心酔していたという)

近藤とともに択捉まで探索。このとき、「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。

1798年 7回目。道路掛に任じられ、日高山脈を切り開く新道を普請。間もなく上役と衝突し刺し違え、蝦夷探索の一線を退く。

徳内は生れつきて大丈夫の気性ゆゑ、御上の御為にならざる筋は堪へ兼ねし気質ゆゑか、信濃守(松平忠明)と大きに取りあひ、すでに帰府の後、存寄書を捧げたり。

1806年 8回目。普請役元締格となり幕府目付け遠山景晋の西蝦夷地見分を案内。5月には宗谷に至る。

1806年9月 ロシア船の連続襲撃事件。

1807年4月 9回目(最後)。箱館奉行の支配調役並となる。以下はすべて調べ役としての業務。

1807年秋 最上は斜里駐留の津軽藩兵を指揮する。

1808年 会津藩兵監察として樺太詰を命ぜられる。

4月 白主に渡り、次いで久春古丹に上陸。

6月 最上徳内、海岸沿いに船で西海岸を北上。トンナイに上陸。

7月 樺太警護のため駐留していた会津藩兵800名とともに樺太を離れる。

同年内に蝦夷を離れ、以後戻ることはなかった。

シーボルトとの因縁話は省略。とにかくスーパーマンであることは間違いない。