ウィキペディアに「帝国国防方針」という項目があって、日本軍の戦略の変遷が要領よく説明されている。

まず「帝国国防方針」とは何かという説明。

陸海軍の国防の基本戦略を記した文書で、軍事機密とされていた。

第1回めの策定は明治40年に天皇により裁可された。その後大正7年、大正12年、昭和11年の3回にわたり策定されている。

山県構想(明治38年 1905年)

策定のきっかけとなったのは1905年8月、日露戦争の直後に日英同盟の改訂が行われたことである。主要な問題意識は、イギリスとロシアが開戦した場合の日本軍の対処であった。

山県案では仮想敵国はロシア・アメリカ・ドイツ・フランスに設定されていた。

第一次国防方針(明治40年 1907年)

山県有朋の構想を元に田中義一(当時中佐)が陸軍草案を作成した。海軍側もこれに対抗して同様の計画を提出した。

国家目標: 開国進取の国是に則って国権の拡張を図り、国利民福の増進に勤める二点。

国家戦略: 満州及び大韓帝国に扶植した利権と、東南アジア・中国に拡張しつつある民力の発展の擁護と拡張。

国防方針: 東アジアにおいて日本の国家戦略を侵害しようとする国に対して攻勢を取る。満州や韓国の利権を扶植。専守防衛路線は明確に否定される。

仮想敵国は、最終的にはロシア・アメリカ・中国に変更された。

政府は統帥権の独立を盾に関与が拒まれた。政府は軍備増強を拒否することで対抗した。

第二次国防方針(大正7年 1918年)

第一次大戦の動向を取り込むための改正。総力戦思想が持ち込まれた。

欧州の疲弊により、仮想敵はアメリカ、中国、ソ連に改められた。ロシア革命後の混乱によりソ連の比重は下げられた。

統帥権は維持したまま、閣議に計画書を提出して同意を求める。

第三次国防方針(大正12年 1923年)

仮想敵はアメリカ、ソ連、イギリス、中国に改められた。総力戦思想に加え、短期決戦の考えが打ち出された。

これは「敵を海外において撃破して速やかに終結する」という戦法である。

第四次国防方針(昭和11年 1936年)

外交で国家の発展を確保し、有事においては先制主義と短期決戦を軍事ドクトリンとする。このため平時における軍事力の準備が強調される。

ということで、前の記事を全面的に変更しなければならない。

1.ソ連主敵論は、日露戦争以後一貫したものだったというのは間違い。1925年ころから、ソ連の国力増強に合わせて打ち出されたもの。

2.一貫した主潮は東アジアへの進出と、武力干渉であり、中国侵略は対ソ戦略の方便ではない。

3.総力戦と短期決戦思想は本来は整合的なものではないが、接ぎ木される形で打ち出されている。これは日露戦争を僥倖ととらえる冷静さが次第に失われていく経過ではないか。

4.軍は統帥権を振りかざして政治の容喙を拒絶する一方、国家目標・国家戦略にまで踏み込んでおり、当初より軍事独裁の傾向を内包していた。

この基本構造の上に、永田・東条の主戦論が乗っかっていくという経過を理解しておく必要がある。ただしこのウィキペディアの記載では第四次国防方針の記載がほとんどないので、確言はできない。