その前のルイ・ボナパルトの治世ですが、これもボナパルティズムという規定が先走っています。今日の我々としては、初期ブルジョア支配の一亜型、ポピュリスト独裁制の亜型として見るべきでしょう。ラテンアメリカの政治史を見ると、この型の独裁制がずいぶんと出てきます。

私の注目するのは、このようなオポチュニスト政権のもとに資本主義政治における基本潮流が出揃って、横一線で張り合うという稀有の状況が出現した時代だというところにあります。なぜならフランスは当時世界で1,2を争う産業大国であるにもかかわらず、欧州最大の農業国でもあったからです。
そして、さすがにフランス大革命の第一世代は消えたとはいえ、いまだに40年前の7月革命、22年前の2月革命を闘った人々がバリバリの現役だということです。いまの日本を考えて見れば、60年安保はすでに55年前、70年安保・沖縄もすでに45年前です。プルードン、ブランキが未だ健在のところにマルクスとバクーニンが割り込んでくるのですから熾烈なレギュラー争いとなるのも当然でしょう。


宮内さんの論文を私なりにまとめてみます。


1.おおまかな布陣

第二帝政の初期の反政府運動は、少数の反動的な「ブルボン王朝派 」のほか、立憲王政主義の「オルレアン派 」、それより左寄りだが保守的なブルジョア「自由派 」、急進的なブルジョア「共和派 」に区別されていた。自由派は第二帝政を承認し、せいぜい議会の権限強化で満足していた。これにたいして共和派はジャコバン主義の継承者を自認し、「民主主義的で社会的な共和国」の基盤の拡大を志向していた。しかしその運動目標は所有関係の根本的改革をめざすものではなく、運動の進め方も議会中心主義となる。これらの政党は第二共和制下の主要政党であったが、ナポレオン三世のクーデタ前後に国外追放になっていた。これらの人々が恩赦で次々帰国しはじめていた。

2.共和派の分裂

1860年代に入ると、ブルジョア「共和派 」は分裂した。「急進派 」、「ネオ・ジャコバン派 」、「ブランキ派 」が並立状態になる。このうち、「急進派 」は1848年の2月革命で主要な役割を演じたが、第二帝政下においては自由派に接近していた。しかし帝政末期にいたると、急進主義の原点に戻ろうとする、より若い世代が登場してきた。「ネオ・ジャコバン派 」は、共和派のうち、より非妥協的で、大衆運動を重視する傾向のグループである。「政治改革は手段であり、社会改革が目的である」と主張する。メンバーの経歴、信条は多彩であった。裏を返せば、言論を主にする統一性のない人々の集合であった。のちにパリ・コミューン議会の多数派を占める。

3.ブランキ派の台頭

ブランキ派 」は社会主義者であり、革命家のオーギュスト・ブランキを中心にした秘密結社である。彼は1830年代から革命運動に加わっており、生涯の大半を牢獄でおくった。1865年にもはや60歳にもなるこの老人は、脱獄してベルギーへ亡命した。ブランキの周辺に、若い世代の心酔者が集まって、1867年にブランキストの秘密結社が再建された。組織の中核は、少数の学生、知識人で構成され、同調者は、1868年末に800人にのぼった。ブランキ派は、行動を重視する組織集団であり、規律と統制、大衆運動における献身的行動において、最もまとまった集団であった。ブランキ派とネオ・ジャコバン派は、のちに、パリ・コンミューンの議会多数派を構成する。

4.労働者の勢力拡大

これに加えて、1860年頃から労働者の意識が次第に変貌しつつあった。ジャコバンではなくサン・キュロットの伝統を引き継ぐ労働運動が高まってきた。…全国的に賃上げ闘争や労働時間短縮のためのストライキが頻発した。1863年の総選挙のときには、労働者の候補者リストが提出された。…その後もますます労働者による反政府運動の力が増してきた。そして、その政治代表として第一インターナショナル・フランス支部(1865年創立)が登場してきた。この中には純粋プルードン主義者と革命的集産主義者派があり、後者が主導権を握りつつあった。

5.労働運動の分岐

プルードン派 」は労働者を議会へおくりこむのではなく、既存の国家機関である議会から離れて、社会組織のなかの変革を、コンミューン連合として発展させようとした。そして「政治」を消滅させ、有機的な調和をもつ社会を思い描いた。

マロン、ヴァルランらマルクスの影響を受けた「革命的集産主義者派 」は、政治革命を通じて生産手段の共有制にもとづく平等社会の実現をめざした。一方で、プルードンの連合主義の影響を受け継いで、一切の革命独裁と政治権力には反対した。彼らはバクーニンの無政府主義にも強い影響を受けていた。


これが、パリ・コミューン直前の政治布陣です。なかなかに複雑でしょう。このほかにサン・シモン主義者やフーリエ主義者などの集団もありました。

エンゲルスは「空想から社会主義へ」の中で、ことさらにプルードンを無視していますが、根本的な思想は別として、社会主義のイメージの中にはかなりプルードン主義のアイデアが紛れ込んでいると見たほうが良いのではないでしょうか。

そしてマルクス主義の社会主義観はむしろパリ・コミューンの後のバクーニンらとの論争を通じて鍛えられていくと見るべきではないでしょうか。