「フランスにおける内乱」という文章は、マルクスにしては珍しくスラスラと読める。
なぜなら継起する事態と同時並行で描かれているからだ。彼には国際労働者協会(第一インター)を通じて山のような情報が集まってきていた。それを取捨選択して彼なりに料理して間髪をいれずに発表したわけだ。
しかもそれを「私の本です」というよりは、「第一インターの見解です」みたいな形で出しているわけだから、「資本論」のように考えぬかれた書物ではない。
彼の見解の中で唯一確実なのは、「革命は出来合いの国家機構をそのまま用いることはできない」というものだ。
ただそれも、「国家機構を粉砕せよ」とか「プロレタリアの独裁」というふうに先鋭化することではない。まだ、彼の中では未分化なまま提起しているだけなのだ。うんと一般化すると、「新しい酒には新しい皮袋が必要」ということになる。
人類の生産力が一段とアップする際においては、それに適合するもう一回り大きいガタイが必要なのだ。そのための「脱皮」の作業が革命の意義なのだろう。

第二にこの本は、分析という点では、コミューンよりもむしろそれが打倒したボナパルティズムに精彩を発揮しているということである。資本主義は一方ではブルジョア民主主義を生むが、他方ではその奇形としてのボナパルティスムを生む。現在の政治情勢を見る上でもそれはきわめて有用なツールである。有用なだけに乱用は危険であるが…

もう一つ、コミューンにおいては労働者派が主体ではない。職人や手工業者を基盤とするプルードン主義や、小ブルの陰謀家なども動いたが、少なくとも最初にことを起こしたのは「本土決戦派」だ。ただそれらの威勢のいいだけの連中は、いざ決戦となると縮こまるか逃げ出すかしてしまったから、最後に残った労働者が割りを食ったというのが経過だろう。
3月末のコミューンと4月末のコミューンは明らかにその性格を変えているから、これらをひとっからげにして美化したりクサしたりするのは理屈に合わない。
ただ当事者たるマルクスにとっては、そんなことは言っていられない。とにかく一所懸命肩入れするほかなかったのである。
これらの一連の経過は、私には「光州事件」を思い起こさせる。その瞬間、参加者はみな聖人であったろう。戦い終わった後は、死者に鞭打つことはできないから、純粋な(マキャベリ的な、あるいはクラウゼビッツ的な)政治分析ではありえなかったと思う。
そのことを悪いと言っているのではない。だれだってそうしたろう。しかしだからといって、この文章をその後の世界革命の導きの書とすることはできないだろう。
それはたとえば、ロバート・リードの「世界を揺るがせた10日間」を読んで、革命の真髄を分かったつもりになるのとおなしではないか。
とりとめないが、とりあえず感想まで。