絶対知 要約の要約 は、絶対知 というページに載っている「精神現象学」の「絶対知」の章の(内容要約)という部分を、さらに要約したものである。

「出席者:長谷川、池内、大澤、竹永、加々見、中澤、鈴木、新浪」とされているので、おそらく長谷川訳の本の検討会の記事なのであろう。訳者が自ら主催し、それに参加者がコメントを述べる形の検討会のようだ。

読みやすいとされている長谷川訳だが、それでも歯がたたない。10年も前に買ってそのまま棚晒しになっている。

要するに読みにくさの秘密は、訳の難しさではなく用語の難しさにあるということが分かった。なぜ用語が難しいか、一言で言えばヘーゲルの言葉の使い方がいい加減だからである。とくに絶対知の章でそれが目立つ。それが分かるのは、それだけ長谷川訳が良いからだも言える。

ヘーゲルはなにか思いつくと、それに適当に名前をつける。その定義はしないままに使い続ける。使い続けているうちにその名前のイメージが固まってくるのである。イメージが固まるのは良いとして、そのイメージがその名前の元の意味からはかけ離れたところに行ってしまう。

我々はその用語を元の言葉のイメージで読んでいくからまったく意味が分からなくなる、というのがこんぐらかる理由のようだ。それに大仰な形容詞をつけるから、「これでもか、これでもか」とパンチを食わされて、2ページも行かないうちに脳みそがグロッキーになってしまう。

巷にはヘーゲル用語辞典というのも発売されているようだが、ヘーゲルというのがそういう人なので、たぶんあまり役に立たないのではないかとも思う。同じ言葉でも使い方がどんどん変わっていく可能性がある。「精神現象学」辞典が必要だろうと思う。

逆に言えば、そういう辞典さえあれば、本文など読まなくても良いかもしれない。

そこで「言い換え集」を試作してみようかとおもう。辞典ではなく、勝手な「あだ名つけ」である。もしテキストファイルがあれば、一括置換で全部置き換えちゃうと読みやすくなるのではないかとの期待を込めている。


絶対、純粋、完全: ヘーゲルの大好きな形容詞だが、目障りだから読み飛ばしていこう。

意識: 心象 “イメージ”のほうが意味が広くて良いかもしれない。「潜在意識」、「無意識」などのような心理学的ニュアンスはない。本能と悟性に裏付けられた心象。

対象: 事象 事物そのもの(存在)ではなく、自分の関係する他者であり、しかもその表象だから事象とするのが良いのではないか。

物:モノ 「物はその有用性で考察される。物は本質的に他のための存在なのである」と、きわめてぞんざいに扱われている。カタカナで書くとそういうニュアンスが出てくる。

自己意識: 対象イメージ 自己と言いながら直接には他者についてのことである。他者について自己の中に思い浮かぶイメージが自己意識である。対象イメージが集積すれば、自己の心象を規定するようになる。

自己: 自己イメージ ヘーゲルは徹底した観念論だから。自己をも自己イメージとしてとらえる。だから他者に向き合うときは「自己にとっての意味」が唯一の関心事項である。正直なのかもしれないが嫌なやつだ。

知: 本質 ヘーゲルは、この言葉を多義的に用いているので、前後関係から判断するしかない。知覚の先にあって思考という感じで使うこともあれば、知識とか知恵とかいう意味でも使う。

理性: 社会常識 “理性的な”というと、褒め言葉だがそのようなニュアンスはない。自己意識の集合体くらいの感じか。

良心: 良識。理性の第2段階で、高級な自己意識。個々の事柄を離れて、それらの知(本質)を貫く純粋意志(目的)を把握する自己意識。ふつうはこれが理性だが、先に使っちゃったので、「良識」とあてておく。

精神: 心 「情」でも良いか。「敢闘精神」、「愛国精神」のようなニュアンスはない。精神は良心(世の良識)が個人の知へ投影したものと考えられている。良心(良識)を基盤とするからポジティブなニュアンスはある。いずれにしても理性と並び立つ概念となる。

完全で真の知: 義 漢字で書けば「義理」になるのだが、義理という言葉にはあまりにも手垢がつきすぎている。自分で作り上げてきた常識と、良識が精神の働きで和解する(というより吸収合併される)。「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たいこの世界」である。これが義である。まぁ、どうでもいいことだが…

美しい魂: 信念 義には二種類あって、良識が外在的なものにとどまっている場合と、しっかり消化されて自己確信に至っている場合がある。前者は宗教である。しかし信心は自らの実現に対立する概念であるから、実践過程で破綻する。後者は「実現を獲得した概念」と呼ばれる。そんな経過からすれば、とりあえず「信念」がよろしいかと… この辺り、ヘーゲルは締め切りに追われて縒れている。

契機: 場 結構いろいろな使い方をするが、「きっかけ」とか「要因」というニュアンスはない。最初は因子にしようと思ったが、点というよりもう少し広がりがあるので、とりあえず「場」をあてておく。

概念: 枠組み 構造とかスキームというとがっちりしすぎている。もっとカジュアルにフレームを組み立てるという感じがある。

絶対知: 摂理 告白するが、このへんになるとよくわからない。たしかにそんなに簡単に分かってしまったのでは、有り難みがない。
ここまでの積み上げの中で、ヘーゲルは「場」的範疇と実践範疇を書き分けてきた。前者に属するのが意識・自己意識・理性の系列で、後者が知の系列だ。精神は個人に戻された理性であり、本来は「場」に属するのだが、戻るという行為により能動性を与えられている。したがってそれは知と共に二つの実践的契機となっている。
おそらくは精神と知が合体したものが絶対知だ。それは信念(美しい魂)と違って能動性を持っており、精神の発展型としての性格を負っている。

真理: 絶対知、すなわち精神の確信に対応する「場」的範疇が「真理」ということになる。ヘーゲルは「完全で真の内容」といっているが何のことかわからない。要するにヘーゲルの論理は真理を論証できないのである。したがって他の言葉に書き換えようがない。しかしヘーゲルの「真理」は嘘っぱちである。ヘーゲルははっきり言うべきだったのだ。「真理」などというものは存在しないと。

学:

もうこのくらいにしておこう。これ以上はあまり意味のある作業には思えない。