絶対知 要約の要約

1.対象とはなにか

対象とは第一に物一般である。それは感覚的確信に呼応する直接的存在である。第二に、知覚との関係において(知覚される)対他存在でもあり(知覚されない)自立存在でもある。第三に本質としての対象一般は、分析知の働きに呼応する(対他存在である)。

したがって対象は知覚の働きにより規定され、個別性を与えられたり、逆に分析知の働きにより一般化されたりする。

この過程の中で、意識は対象を自己自身として知ることとなる。ただ、その枠組はまだ対象意識の諸形態のままである。

2.対象を自己自身として知ること

観察理性は、無関心な存在としての対象の中に自己(にとっての意味)を発見する。そして自我の存在は物であるという無限判断に到達する。“意味”という不可視のものを対象としているために、この判断は直接的には無精神であるにもかかわらず、精神に満ちているのである。(たしかに無限に持って回った判断だ)

対象はそれ自身として成り立つのではなく、自我と対象との関係により成立する。(ずるい言い方で、“ない”とは言わず“成り立たない”と逃げる)

物はその有用性で考察される。物は本質的に他のための存在なのである。(これはむき出しのプラグマチズムだ)

普通の自己意識は物の知(本質)を存在の直接性において知るのみである。それを内的なものとして知るのは高級な自己意識(良心)である。この良心(意識)は存在を純粋意志(目的)である知(本質)として知り、その知(本質)を絶対存在として知る。

良心は自己の純粋知(高級な思考)を具体的な場として行動によって身をさらす。その結果、精神はその本来の意識と統合されて和解する。これらの契機の精神的統一が和解の力となるのである。最後の契機(良心)がこの統一自身であり、すべての契機を内的に結びつける。(完全な論理の空回り)

3.精神と「完全で真の知」

(精神は良心=世の良識の個人への投影と考えられているようだ)

精神(心)は存在の場として自己の知以外をもたない。その行うことを義務の確信に基づき行う。

現実(のイメージ)は直接的存在としては自己意識にとって純粋知(単純な知識)以外のものではない。自己(の精神)に対するものは、一方ではこの純粋な個別的自己の知であり、他方では普遍的知の知(世の常識)である。個別の自己において、この二つの知は(精神によって)いまだのこる空虚な対立を破棄する。そして「完全で真の知」(真理)が形成される。

意識の自己意識とのこの和解は二重の側面で実現される。つまり、一方では、宗教的精神(宗教心)において、他方では、意識そのもの自身において。前者は潜在的和解であり、後者は自覚的和解である。このふたつの側面の一致が一連の精神形態を締めくくる。

精神の宗教的(潜在的)現れは示されたが、概念(枠組み)の単純な単一性に欠けている。この概念は、自己意識(良識)の側面では、すでに自己確信の精神形態、「美しい魂」として現れている。この概念(信心)は現実化に対立したままであれば、一面的形態(宗教)として虚空に消える。

しかし積極的外化と現実化により、この無対象な自己意識(漠然とした常識)の自己硬直、自らの実現に対立する概念(信心)の確定性はうちこわされる。自己意識は普遍性の形式を得、自己意識に残るのは、真の概念、実現を獲得した概念である。

以下、しばらく省略

4.絶対知と真理

精神の最後の形態は絶対知(摂理)である、絶対知は完全で真の内容(真理)に同時に自己の形式を与える。絶対知はその概念を現実化し、同じくこの現実化において精神の概念にとどまる。

(この形態において)精神は絶対知である。精神の形態(心)のうちに自己を知る精神、概念把握する知である。

真理は真理の現実存在の中にある。(ここにおいて)真理は潜在的に完全に確信にひとしい。

真理は宗教においては精神の確信にいまだひとしくない内容である。内容が自己の形態(概念)を得たことでひとしくなったのである。本質(良き自己意識)が、現実存在の場、あるいは意識にとって対象性をもつ概念(真理)になったのだ。

この場において意識に現象する精神、もしくは、ここでは同じことだが、この場において意識により生み出される精神は学である。(もういい加減にせぇ。何階建てにすれば気が済むのだ)

5.時間と精神

時間は概念(の一つ)である。この概念は目の前にあるものであり、空虚な直観として意識が表象する。

それゆえ、精神は必然的に時間において現れる。精神がその純粋概念を把握しない限り、すなわち時間を抹消しない限り、精神は時間の中にある。

時間は直観による外的な、自己により把握されていない、ただ直観されただけの概念である。概念が自己自身を把握するとき、概念はその時間形式を破棄する。

時間はそれゆえ運命として、自己のうちに完結していない精神の必然性としてあらわれる。この必然性は、意識における自己意識の関わりをゆたかにする。それは直接自体的なものと意識された実体を運動させ、逆に内的なものとして捉えられた実体を実現し、顕示する。すなわち意識自身の確信へ返還請求する。

精神はそれ自体が「認識」という運動である。潜在から自覚への、実体から主体への、意識の対象から自己意識の対象への、同様に止揚された対象、もしくは概念への転換である。この運動は自己にかえる円環であり、その始まりを前提し、終わりにおいてのみこの始まりに到達する。

6.精神と概念

 現実存在が直接に思考である自己意識の形式において、精神の内容は概念である。精神はかく概念を獲得し、その生命の精気のなかに現実存在と運動を展開し学となる。

 学(特定の諸概念)においては、もはや特定の意識形態として概念の運動が示されるのではない。概念の運動は特定の諸概念の有機的運動として示される。

「精神現象学」では知と真理の差異を明らかにすること、両者の差異を破棄することが各契機なのであるが、それに対し、学においては契機が概念形式を獲得しているゆえ、真理の対象形式と自己知の対象形式は同一である。意識における現れから開放された純粋概念とその運動は概念の純粋規定のみに依拠する。現象する精神形態は、学のそれぞれの抽象的契機に該当する。

学の本質である概念は概念の単一な媒介による契機を砕き、諸概念の内的対立に従って表現される。このような学の純粋形態を意識形態のかたちの中に認識することが学の現実面となる。

この現実面に基づけば学はそれ自身の内に純粋概念を外化(放棄・譲渡)する必然性と意識への移行を含む。

自己自身を知る精神は精神概念の把握により直接に自己自身と同一なのである。直接的なるものの確信であり、感性的意識である。それはわれわれの出発した発端である。

精神のその自己的形式からの解放は、自己についての精神の知の最高の自由であり、最高の安定である。

7.精神が自然を、歴史を生成する(あほか)

だが、この外化はまだ不完全なのである。この外化は対象への精神自身の確信の関係を表しているが、この対象は関係においてあるゆえ、まだ完全な自由を獲得していない。知とは自身を認知するだけでなく、知自身の否定、知の限界をも認知することなのである。

限界を知るとは自己を犠牲にすることを知ることである。この犠牲は精神が精神への生成を限定されない偶然的な出来事というかたちで表現する外化である。精神はそのようにして、その純粋自己を精神の外部に時間として、その存在を空間として直観するのである。

精神のこの後者の生成、自然は、精神が無媒介に生命をもって生成したものである。自然、この外在化した精神はその現実存在において永遠に外化して存続し、主体を確立する運動である。

精神の生成のもう一つの側面は、知的な媒介による歴史の生成である。歴史とは時間において外化した精神である。この外化は外化した知自身の外化である。この生成は絵画の回廊として諸精神の運動と連続を提示する。

8.精神はやがて現実存在を去るが、記憶の中に残る

精神の完成は精神がその実体を完全に知ることである。この知ることとは精神がその現実存在を去り、その形態を記憶にゆだねて、自己の内へ向かうことである。自己の内に向かうことで、精神は自己意識(記憶)の暗夜に沈み込む。精神の現実存在は消滅し暗夜の中に保存されている。

こうして保管された現実存在、つまり、以前のものではあるが知から新たに生まれた現実存在は、新しい世界であり、新たな精神の形態である。精神はこの形態で無心に第一歩から始まらねばならず、この形態から再び自身を育てなければならない。記憶は過去の諸精神を保存しており、実際にはより高次な実体形式なのである。精神が外見上自己のみを出発点として最初からその形成を再び開始するとしても、この精神が始まるのはより高次の段階である。

諸精神の連続である歴史の目標は精神の深さが啓示されることである。この深さとは絶対概念である。「啓示」は絶対概念の深さを破棄し、絶対概念を水平にひろげる。啓示はまた自己内在する自我の否定性であるが、この否定性は概念の外化であり、あるいは概念の実体である。

諸精神の保存は限定されない偶然的現われの側面では歴史であり、概念把握された組織化の側面では現象する知の学である。あわせれば概念化された歴史(歴史観)である。

この両者は、絶対精神の記憶(歴史)とゴルゴダの丘(殉教と復活)であり、玉座にある精神の現実、真理、確信なのである。この玉座を欠けば精神は生命を失い、孤立してしまうであろう。(ヘーゲルの最後っ屁)