ヘーゲルが「世界は認識可能だ。なぜなら認識不可能な世界は存在しない(存在し得ない)からだ」という時、ずいぶん傲慢なことを言うなと思ったが、「とりあえずそれでいいじゃん」というニュアンスであれば、「それでもいいか」と思ってしまうところもある。さらにヘーゲルは一歩進めて、「役に立つから世界じゃん」というので、さすがにそれは同意できないが。
我々の知りうる三つの物理学的ゼロがある。
ひとつは重力ゼロ、一つが温度ゼロ(絶対0度)、もう一つが時空間ゼロ(ビッグバン)だ。
重力ゼロはかんたんに体験できる。風呂に入って、鼻をつまんで潜れば、体は浮く。重力ゼロだ。
他の二つはかんたんではない。ただ仕掛けがあれば温度ゼロに限りない状況は作れる。リニア新幹線などで今や実地に応用される可能性すらある。
時空ゼロはきわめて難しいから、大規模な装置で、そのほんの一部を垣間見ることが出来るだけだ。
このように、難しさのレベルではまったく様相をことにするものの、本質で共通していることがある。それは時間軸をいじろうとしていることだ。重力は m/s2 温度の方の単位は良く分からないが、速度の関数であることは間違いない。 我々の住む世界、ヘーゲル風に言えば自己意識の世界は、一つの時空間である。そしてそれは時間軸が一定という前提のもとに成立している。
しかし現代科学は時間軸は歪むし曲がるし途絶することを明らかにしている。そしてそれが相対的なものであるらしいことを示唆している。
ここから2つのことが考えられる。
一つは時間軸をも乗せる第5番目の軸、すなわち5次元の考えが必要になるだろうという予感。x,y,z そして t 軸に加えてもう一つの軸を想定しなければならないということである。
もう一つは、認識の限界あるいは観察の質的限界は間違いなく世界の質的限界を規定しているということである。我々は我々に向かってくるのものしかエネルギーとして感じることができない。ものさしは自分にしかないのだ。しかし去っていくエネルギーもあるはずだ。
かくして、亀は遠ざかるアキレスの背中を見つめるのだ。