1.意識を離れて存在なし

意識から出発し、「否定の否定」によって次々と発展を続けることによって、現象の背後にある物自体を認識することができるという主張。認識された物自体が真理、真理を認識するのが絶対知ということになる。

対象は、意識の対象として対他的な存在であり、また即自的な存在(物自体)でもある。しかし「物自体」も意識と離れては存在することが出来ず、意識のなかでの存在でしかない

したがって意識の拡大が存在の拡大であり、意識の明確化が存在の明確化であり、真理の拡大である。

これが「精神の現象」に関する概念である。

直接には物自体の不可知性(カント)を批判するものである。悪く言えば、半ばはそのためのレトリックでもある。

2.意識の自己意識への発展

次に意識の自己意識への発展過程を見よう。

意識が現象と相対するとき、意識は仮象を形成することを通して、現象を解明する。このように解明された現象は事象(Sache)となる。そしてそれを捉えた意識は「知」となる。

その意味では「認識論」の範疇に属するものだが、一般的な認識が事物の意識への投射とその受容であるのに対して、ヘーゲルの認識は対象世界へ乗り出す実践的認識である。したがってそれは認識論であるとともに実践論でもある。

そのために認識・実践主体の「主語」=私、私たち、人間、人類が必然的に揺らぎ、時に乖離する。(揺らぐのは意図的なすり替えにもよる。陰の主人公は絶対知の高みにいる我々=ヘーゲルである)

もう一つは、認識・実践主体の側にのみ能動性を認め、対象の側の「逆能動性」が(意図的に)捨象されていることである。これは多くの認識論とは真逆の立場である。しかし対象の側の能動性=反作用なしには「否定の否定」は成立しないから、どうしても再止揚の論理立てが苦しくなる。

自己意識はまずもって無意識的な意識が発展したものだ。我々が使う“自意識”とはまったく異なる。それは事物の「意味付け」の体系だ。諸個人がそれぞれの立場で「意味付け」するから、自己意識は一方では事物に縛られ、他方では個人に縛られる。

その前の「意識」というのは「本能」みたいなもので、今風に言えばDNAに規定されたものだ。こののっぺらぼうな「意識」においては、動物的な生きるすべとかそれなりの悪知恵は働いても自分を客観視出来ない。

かくして、ヘーゲルによれば、意識は現実界を媒介(鏡)とし、鏡の背後を透視するというかたちで自己意識の世界を形成していく。

意識が知覚を通じて事物に意味を求め、意味(知)を集積していることが分かる。これは発達心理学でお馴染みの場面だ。この部分は我々の常識から見ても飲み込みやすい図式だ。

3.自己意識から理性へ

自己意識→理性の段階はこれに比べるとややこしい。意識と自己意識の矛盾がこれまでの主要な問題であった。この後は自己意識のもたらす「知」と、対象との不一致が主要な問題となる。対象が自己意識に何度も逆襲するのである。

ウィキペディアにはこう書いてある。

「自己意識」と同質な意識を他者にも認めることによって、他人の「自己意識」をも認識し、単なる自我を超えた普遍的な…「自己」を認識にするに至る。

つまり「自己意識」が「我らの意識」となって、それが理性に集約するというのである。ここでヘーゲルは意識の集団的理解により自我の限界を突破したことになる。(自己意識の“社会意識”へのすり替えとも言える)

人という生物集団は個人として分裂し、認識の作業はいったん自我のレベルに拡散するのだが、それがふたたび諸個人の社会への結合により合一するという過程である。(それは事物の統一性に規定されるからではないか)

「理性」というのも、ヘーゲル独特の用語であって、我々が普通に使うようなポジティブなイメージではない。自己意識の総和、あるいは平均値くらいの位置づけだろうと思う。

「精神」も「時代精神」くらいに受け止めておいたほうが良いと思うが、これについてはヘーゲル自身が結構揺れている。

いずれにしても、ここから絶対知にはまだ長い道のりがある。


つぎは 苫野一徳Blog というページ

ここには精神現象学成立の裏話が載っていて、大変面白い。

本書の当初の計画では1.意識 2.自己意識 3.理性までで、「4.精神」と「5.宗教」の存在はなかった。

それがなぜ組み入れられたかというと、出版社とのいろいろな問題があったかららしい。…

ところが本書執筆中に…契約のページ数に足りないことが分かった。

そこで彼は苦肉の策として、「精神」と「宗教」の章を付けたした。

そういうわけで、実は「精神」と「宗教」の章はある意味蛇足で、そのために本書の内容をいっそう分かりにくくしている原因にもなっている。 

ということで、「3.理性」まで読めば、ヘーゲル認識論は一応卒業だ。

逆に言えば「4.精神」と「5.宗教」は「社会と意識発展の弁証法」という別枠の論理として構えたほうが良いということになる。

4.自己意識の相互承認

苫野さんは「自己意識」が「我らの意識」となる上でのキーワードが「相互承認」だと強調している。

しばらく苫野さんの説明を伺うことにする。

1.単純な相互承認: 運動は端的に両方の自己意識の二重のものである。おのおのがその為すところをなすのは、ただ他方が同じことを為してくれるかぎりにおいてのことでしかない。

2.主と奴の相互承認: 自己意識は、「承認のための生死を賭する戦い」を繰り広げ、その結果、主人と奴隷とに分かれることになる。主人はひたすら自由を「享受」し、奴隷は使役を義務づけられる。

3.奴隷は労働を通して自由になる: 労働(使役)は対象世界を都合のいいように形成する。労働を通して、自己意識は自分の欲望を抑えることを覚える。

この後は「理性」もふくめてかなり俗っぽい話に移っていく。論理の進行にはあまり関係なさそうだ。

5.「事そのもの」と「良心」

ということで、少し飛ばして「事そのもの」に移る。

苫野さんはこう書いている。

この「事そのもの」を自覚することこそが、「理性」のいわば最高境位だ。

以下がヘーゲルからの引用。

「事そのもの」は本質的な実在であり、すべての個体の行為することである。…「事そのもの」は、すべての人々の実在であり精神的な本質である。

さらに「事そのもの」は現実である。これが現実であるのは、意識が自分の個別的な現実であると同時に、すべての人々の現実であるからである。

ということで、「さて、事そのものとは何でしょう」というクイズです。自分自身をふくめて、人々の共通認識ということなのだろう。「社会常識」というとちょっと狭くなってしまうが、そんなところか。

ただこれではその認識の正邪の議論にはならない。

そこで今度は「良心」というものが出てくる。

「良心」の元の言葉はGewissen で、“すべてを知ること”とも訳される。俗っぽく言ってしまえば、「事そのもの」が社会常識であるのに対して「良識」ということになる。

「良識」というものは誰でも持っているわけではなく、「識者」という人々に限られている。

苫野さんは下記のごとく結んでいる。

「良心」、これが精神の最高境位なのだ。それは「事そのもの」を自覚した精神のことである。そしてヘーゲルは、この境位を「絶対知」と呼ぶ。

ということで、ヘーゲルの弁証法が妖刀村正のごとく、ぬらぬらと冴えているのは意識→自己意識のところまでで、後は細部に流石と思われるところがあったとしても、まとめきれずに終わっている感じが否めない。

残された作業としては、自己意識の運動過程をより精細に描き出し、その方向性をより明瞭なものにすることだろう。


6.相互承認と階級関係

承認の問題については草食系院生ブログでも労働と承認の弁証法」という題で触れられている。

まず著者の提示を引用する(この理解には納得出来ない)。

「B.自己意識」の段階では、自と他が切り離され、さらに自己が自己自身を意識の対象とする状態にあります。

そして、自己とそれを観察する自己という二つにわかれた意識が統一されるために「承認」の運動が必要とされているのです。

その最初が「生死をめぐる闘争」だが、かなり観念的なのでとりあえず飛ばしておく。

次が「主と奴」の関係だ。ヘーゲルはこの関係を、現代社会の基本をなす人間関係(支配者と被支配者)と考えている。

るる説明があるが、知りたいことは自己意識 承認 を通じて理性 へと止揚される過程である。

著者は労働の役割に関心があるので、話がそっちにずれていくのだが、結論としては階級社会の発生にともなって、非支配階級の中に「相互承認」が生まれるということだ。

支配階級との間は、そして支配階級内では、相変わらず「生死をめぐる闘争」の関係が続く。しかし被支配階級の諸個人の間では「生死をめぐる闘争」の関係が止揚され、相互承認の過程が働いて、理性が発生するというメカニズムだろう。

以下はヘーゲルの引用の引用。

一見、従属的で非本質的な立場に置かれている奴隷の意識こそが真の独立自存の意識に近い場所にいる 

…一見他律的にしか見えない労働のなかでこそ、意識は、自分の力で自分を再発見するという主体的な力を発揮する。

なぜなら、労働は取得・享受と切り離され、純粋な“働き”として外化するからだ、ということになる。ヘーゲルにとっては「疎外された労働」こそポジティブなものなのだ。ただ労働はこの場面では媒介的なものに過ぎず、本質は支配・被支配という人間関係にあるのではないかと思う。

ところで、長谷川さんは「ヘーゲルはEntäuserung(外化)を使ったが、マルクスは疎外(Entfremdung)と区別しなかった」と指摘しており、マルクスが悪いように書いている。真偽は不明だが頷かせる指摘だ。


7.自己意識と理性の葛藤

目下のところ、肝心の問題は解決していない。自己意識 理性 へと止揚される 過程については説明がないからだ。

今まで聞いた話では、「みんな丸っこくなって、自己意識のすり合わせをして最大公約数をとりましょう。それを理性と呼びましょう」ということにしか聞こえない。

そういうのは、ふつうは止揚とは言わず、慣れ合いと呼ぶ。

もし本気で自己意識を揚棄するなら、自己意識の内的論理によって説明してもらわなければならない。

たしかにその後の「理性論」の展開は、明らかに自己意識と理性の葛藤みたいな様相も呈している。良心についての議論はむしろそうとったほうが分かりやすい。しかしヘーゲルは明示的に展開しているわけではない。