鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

 第三手稿 「ヘーゲル弁証法および哲学一般の批判」を熟読する

経済学・哲学手稿は日本語では三つの訳があり、藤野の国民文庫は最も古く、最も読みにくい。

手稿の中でマルクスの観念は奔逸している。前後左右どこに飛ぶか分からない。センテンス一つを5つ分けにしないとならないくらい、読者を振り回す。それを読みこなす上では、藤野の訳が一番良いかもしれない。

岩波の訳はこなれているが、こなれすぎている印象がある。国民文庫で慣れてしまっているので、とりあえずこれで始めて、後で岩波版を参照することにする。

探しものは、エンゲルス風でない「真理」に関する記述だ。ただし見つかるかどうか分からないという、はなはだ頼りない航海になりそうである。

悪文・悪訳の中で、どこまでがヘーゲル批判なのか、どこからがマルクスの主張なのかだけは見失わないように、読み解いていこう。


第三手稿 「ヘーゲル弁証法および哲学一般の批判」

(6) ヘーゲル哲学とヘーゲル弁証法

私流に小見出しをつけていく

1) ヘーゲル弁証法を批判しなければならない

弁証法は(ヘーゲルが哲学を展開するための)方法である。

ここでは弁証法を①弁証法一般、②現象学における弁証法、③論理学における弁証法、④ヘーゲル左派と弁証法の関係、について論じていく。(このなかで現象学における弁証法と論理学における弁証法とを分けて論じることがポイントとなる)

ヘーゲル弁証法をどう遇するかということは、我々にとって本質的な問題である。

しかし、これまでのヘーゲル批判は、ヘーゲル哲学の批判ではあっても、ヘーゲル弁証法については“まったく無批判”であった。

(次いで、マルクスはその典型として、ヘーゲル左派の旗頭バウアーを槍玉に挙げる。ここはうっとうしいので省略する。ただし②現象学の弁証法においては、「自己意識」の批判的検討がカギを握ることを示唆していることに注目)

2)フォイエルバッハの三つの業績

(バウアーより前に)フォイエルバッハはヘーゲルの弁証法と哲学を転覆してしまった。(きざし的にではあるが)

フォイエルバッハはヘーゲル弁証法をまじめに批判した唯一の人である。そして弁証法に関する領域で真実の諸発見をした唯一の人である。そしてヘーゲル哲学の真の克服者である。

フォイエルバッハは三つの偉大な事業を成し遂げた。

A ヘーゲル哲学が宗教であることの暴露

フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学は思想の中へ持ち込まれて、哲学的な言葉で詳説された宗教にほかならないと断罪する。それは(感性的な)人間的本質を疎外するもう一つの形式にすぎない。

(フォイエルバッハは「疎外」を常にネガティブなニュアンスで語っていることに注意。マルクスも第一手稿の「疎外された労働」ではフォイエルバッハの使用法に従っている)

B 真の唯物論の基礎と、現実的な科学の基礎を築いたこと

フォイエルバッハは、「人間の人間に対する」社会的な関係を(「人間の自然に対する関係」と)同様に、理論の根本原理とした。

それによって、真の唯物論と現実的科学が結び付けられた。(ここで言う「現実的な科学」というのは自然科学、「真の唯物論」というのは、歴史学も含めた広い意味での社会科学を指すと思われる。この頃のマルクスにとって、「真の唯物論」は「史的唯物論」に近かった)

C 「否定の否定」の否定

ヘーゲルは絶対肯定的なものとして「否定の否定」論を主張した。フォイエルバッハはそのような持って回った論理でなく、おのれ自身が、おのれ自身に もとづいて、おのれ自身の上に立ち上げた肯定的なものを対置する。そのことによって、「人間の人間に対する」関係を構築するのである。(「否定の否定」論 は後出)

3)フォイエルバッハのヘーゲル弁証法批判

フィエルバッハは、ヘーゲル弁証法批判を通じて、現実的なものからの出発を基礎づけようとする。その内容をマルクスは以下のように整理する。

(フォイエルバッハが批判するのは③論理学における弁証法であり、あとからマルクスが批判する②現象学における弁証法ではないことに注意)

A ヘーゲルの出発点は疎外態である (疎外態という言葉は岩波版から)

ヘーゲルの「疎外態」(Entfremdung)は論理的に無限定な抽象体(Logisch: Unendlich Abstrakt Allgemeinen)である。それは固定された抽象物である。その点において、宗教と変わるところはない。つまりヘーゲルは「神学」から出発するのである。(ただし、マルクスは「疎外態」という把握には賛成していない)

B ヘーゲルは疎外態(神学)を止揚することにより「現実」を創りだす

無限から有限へ、抽象から具象へと「現実」が形作られる。その点において、神の天地創造と変わるところはない。そして神学も現実をあつかう「哲学」に外化する。

(これはヘーゲル論理学の論理である。現象学においては意識が自己意識となる過程に相当する。両者を混同したままだと読者の頭は乱れた麻のごとくになる)

C ヘーゲルは創りだされた現実を再び止揚し、抽象的一般を立ち直らせる

このような有限で感性的な現実はフォイエルバッハにとっては肯定的なものであるが、ヘーゲルはそれを止揚してしまう。そしてそして「哲学」は止揚され「神学」が再興される。

以上が「否定の否定」に対するフォイエルバッハの整理だ。(とマルクスは読んでいる)

神学の立場からすれば、自己を外化し、外化することで自己を確証し、外化したものを取り込むという形で自己完結するかもしれない。しかし哲学は神学 のためのジャンピング・ボード(契機)にすぎないことになる。それでは浮かばれない、というのが哲学者フォイエルバッハの言い分である。

4)フォイエルバッハの「否定の否定」批判にマルクスが異論

すまん、私の雑感を入れさせてもらう。

フォイエルバッハは疎外態を「固定された抽象物」とし、宗教のようなものだと批判する。フォイエルバッハにとって、「否定の否定」というのは詰まるところ神学の学的過程である。もし「否定の否定」が学的過程にとどまるとすれば、それは一種のトートロジーとなってしまう。
しかしフォイエルバッハが疎外態と言っているものは、「固定された抽象物」ではなく、むしろ、「原初」というか混沌としたカオスのようなエネルギーの塊としてとらえるべきではないか? そうでないと、何が「有限的な具象化された現実」を作り出すのかという駆動力(契機)が見えてこない。
なぜこのような食い違いが生まれたか。それはヘーゲルに責任があると思う。
ヘー ゲルが②現象学における弁証法を③論理学における弁証法に援用し、その過程で主語がめちゃめちゃになってしまった。現象学の弁証法では主語は 「意識」である。意識というのはゲーテの小説の主人公ウィルヘルム・マイスターだ。燃えるような生の欲望しか持たない若者が、社会を遍歴することによって 自己を見つめ、自己を知り、やがて成熟した大人として巣立っていくという教養小説の哲学版と考えれば、きわめて分か りやすい。
ウィルヘルム・マイスターの意識(パトス)は青年たちに共通したものがある。そのパトス をヘーゲルは「意識」あるいは「自己意識」としてすくい取ったわけだ。それをいつの間にか、「抽象物一般」にまで演繹してしまったから、ヘーゲル論理学の 主語がわかりにくくなってしまった。そしてフォイエルバッハに批判されることになる。

以下の一段落は、フォイエルバッハのヘーゲル批判に対する異論である。

フォイエルバッハの言うように、抽象的一般の研究が神学であり、現実世界の研究が哲学であると規定すると、哲学は神学を肯定することにより自己を否定することになる。これは哲学についてのフォイエルバッハの見方が狭いからそうなるので、彼は「否定の否定」を、もっぱら神学と哲学との対立、哲学の自己矛盾としてしか把握していないからだ。

このあと再びフォイエルバッハの主張の紹介に戻る。このあたりオリジナルのヘーゲルの主張、それに対するフォイエルバッハの批判、さらにそれに対するマルクスのコメントが錯綜するので要注意だ。

フォイエルバッハは言う。(以下の段落は、藤野訳では誰の発言か分からず、岩波版でフォイエルバッハの発言と判明する)

ヘーゲルの「否定の否定」は、「肯定」と同じことになる。すなわち自己肯定である。出発点としての抽象的一般は、「否定の否定」という形で自分自身を肯定する。

しかしそこには感性的確信がなく、自己確証を伴っていない。(「我思う,故に我あり」と言ったって、目にも見えず耳にも聞こえないんじゃ「我あり」とはいえない)

これに比べて、感性的に確実な肯定、自分自身に基礎を持つ肯定というのは、(論理的)媒介なしに直接に示しうるではないか。

マルクスは以上のごとくフォイエルバッハの考えを紹介した上で、下記の傍注を付け加えている。

フォイエルバッハはヘーゲルの「否定の否定」を、抽象物(意識)がそのままに直感、自然、現実であろうと欲する思考だと捉えている。

マルクスはフォイエルバッハの論証にかなり不満を持っている。どこが不満かというと、「否定の否定」をもっぱら哲学の自己矛盾としてのみ把握しているからである。

(ところで、マルクスのフォイエルバッハの引用はかなり不正確で勝手読みで、これを読んでもフォイエルバッハの真意はさっぱり伝わってこない。岩波版の訳注286ページに、フォイエルバッハの本文が紹介されているので参照のこと)

5)「否定の否定」は哲学の枠にとどまらない

マルクスの考えるところによれば、ヘーゲルは「否定の否定」こそ、真実かつ唯一の肯定的なものと主張している。また「否定の否定」こそ、「存在」が自己を実証するための唯一の心ある行為だと主張している。

マルクスの考えるには、ヘーゲルは正しい。そのことによって、ヘーゲルは「歴史の運動」の表現を見出した。

ただしそれは二つの制限を含んでいる。一つはそれは抽象的な論理と思弁にもとづく仮説でしかない。またその「歴史」は人間の現実的な歴史ではなく、人間の発生史(産出行為)であるにすぎないということである。

ヘーゲルにおけるこの「歴史の運動」を、批判的な形態において解明することにしよう。あたかもフォイエルバッハが宗教批判において行ったのと同じ批判の手法で…(このセンテンスは藤野訳ではまったく読み取れない)

ヘーゲル現象学に示された弁証法の分析

ここからさきは、マルクス自身のヘーゲル弁証法批判が始まる。

その最大の特徴は、後の論理学や法哲学でなく、初期の精神現象学からヘーゲル弁証法を抽出することである。マルクスは、この方法でヘーゲル哲学の主客転倒のトリックを打破し、これによりヘーゲル弁証法とヘーゲル哲学とのあいだにくさびを打ち込もうとしている。

1) 現象学こそヘーゲル哲学の真の生誕地

ヘーゲルは歴史の運動(感性的)に対して抽象的、思弁的な表現を見出したに過ぎない。ヘーゲルの描く「歴史」は人間の現実的な歴史ではなく、人間の発生史(人間の産出行為)モデルであるにすぎない。

ヘーゲルの体系を見るためにはヘーゲル現象学からはじめなければならない。これこそヘーゲル哲学の真の生誕地だからである。そこには意識と世界のどんでん返しの秘密が隠されている。

まずは「精神現象学」の目次を並べていく。

(A) 自己意識

(B) 精神

(C) 宗教

(D) 絶対知

2) ヘーゲルのエンチクロペディーの概観

ヘーゲルのエンチクロペディーは、論理学(純粋な思弁)からはじまり、絶対知で終わる。その全体系は「哲学的な精神」の展開と客観化にほかならない。

「哲学的な精神」とは、「世界精神」(抽象的な思惟)が自然と触れ合うことで客観化(外化)されたものである。外化されたものが外化される(否定の否定)ということは、「哲学的な精神」が新たな「信念」として固定されることを意味する。

その最終ゴールである「絶対知」(認識された真理)は、超人間的な抽象的な精神である。

A.外化された論理としての抽象思考

論理学とは、一切の「現実」から切り離された純粋な思弁である。

この論理学が外的自然と出会う時、そこに生まれるのは抽象的でありながら客観的な思考(知識と、知識に基づく思考)である。なぜなら論理学は客観的な事物に縛られてしまうからである。

B.精神への回帰

「世界精神」は現実と触れ合うことで客観化(外化)される。その結果生じた「哲学的な精神」は自己自身とはみなされない。それが思考の遍歴を重ねた末に「絶対知」(真理)を見出して、それを自分と一体化させる。そのことにより自分にふさわしい存在の仕方(ただし抽象的)を獲得する。

(私的な感想を言えば、これは「信念」の自己運動である。ある種の信念(思い込み)をもって事にあたる。その時、現実とのあいだにさまざまな齟齬が生じる。現実との格闘の中で、新たな「真理」に辿り着く。その「真理」を受け入れることで新たな「信念」が形成される。ただし「現実との格闘」は哲学的な精神の中で行われるので、主語は信念であり、自己運動(自己陶冶)の過程はすべて抽象的なものである)

3) ヘーゲルにおける二重の誤り

第一の誤り ヘーゲルは自分を現実世界(疎外された世界)の尺度として立てている。しかし彼自身は現実の人間(疎外された人間)の象徴的存在にすぎ ない。ヘーゲルにあっては、哲学という場で、ファントムとしての自身が現実世界のファントムを相手に格闘(エアーバトル)しているにすぎない。この誤りはヘーゲル哲学の誕生地としての現象学において最も明瞭である。

これを現実世界から眺めれば、ヘーゲルが抽象的世界に自らのファントム(自己意識)を作り出し、そこにヴァーチャルな世界を写しだし、抽象的で絶対的な思考を生産しているさまとして捉えられる。

そこに起きているのは、抽象的思考と現実のもたらす感性との対立である。そしてそれはヘーゲルの思惟の世界の中で対立しているのである。ヘーゲルにあってはこの対立がすべてであり、他の対立はただの見かけ上のものでしかない。

ところで人間的本質は、自己を「自らにとってよそよそしいもの」として対象化するわけではない。ヘーゲルの「疎外」というのはそういう意味ではない。「疎外」という対象化は、自己意識の発生という形態の対象化である。(私の記事ではフォイエルバッハ的なニュアンスでの疎外を「疎外」と呼び、ヘーゲルの言う疎外は「外化」ないし「対象化」としている)

第二の誤り? 対象の獲得はただ意識の中でのみ行われる。

人間の諸力が対象化され、それが再び獲得される経過は、ただ意識の中で、純粋な思考として、抽象的に行われるのみの経過だ。感性的対象は直接に我がものとされるのではなく、対象の持つ抽象的本質として獲得される。

感性的な意識は抽象的なものではない。それは人間が持つ現実の意識である。宗教、富などの社会事象は人間の本質的諸力が生み出したものであり、それが(フォイエルバッハ風に)疎外された現実の姿にほかならない。

これにたいしてヘーゲルは、これらの社会事象を(自己意識が生み出した)精神的存在としてとらえる。なぜなら人間の本質は精神だからだ。つまりそれらの社会事象はヘーゲルにとってはたんなる外的な所与(ファントム)なのだ。

ヘーゲル現象学はなかなか鋭い批判を含んでいるが、これらの観念的な弱点が、ヘーゲルが後に堕落していく秘密の源泉となっている。

4) ヘーゲル現象学への賛美

国民文庫215ページの半ば以降は、現象学に対する賛美である。

現象学はいろいろ問題があるとはいえ、現実批判のあらゆる要素が隠されている。それは疎外された形式ではあるが、宗教、国家、市民的生活などの領域への批判を含んでいる。それは後年のヘーゲルをはるかに凌駕している。

現象学の究極の成果は「否定性の弁証法 」である。それは世界を運動させ産出する原理となっている。

第一に、人間の自己産出がひとつの過程として捉えられていることである。対象化は自己の外化(対置化)として捉えられる。そしてこの外化は止揚すべきものとして捉えられる。

抽象的意識から析出され対置化された人間とは、鏡のこちらから見れば現実の人間であり。その故に真なる人間である。

(第二に)人間(自己意識)が類的存在(現実的な存在)であることを実証するためには、現実に持つ諸力を発揮して活動することが必要である。

それは個別の人間ではなく、人類の総活動によってのみ可能である。そしてその積み重ねとしての歴史の成果としてのみ可能である。

現実の人間は人間自身の労働(事物に働きかける活動)の成果である。ゆえに否定性の弁証法はここにおいて労働の本質を把握するのである。

ヘーゲルは労働(仕事)を人間の本質ととらえる。ただし彼にあっては仕事(刻苦勉励)は肯定的なものとされ、労働の否定的側面は無視されていることに注意が必要だ。

人間は労働を通じて対自的存在になる。ヘーゲルの仕事概念においては、それは自己意識(自己を知る人間)の外化とされる。

これまでの哲学者は自然と人間生活との個々の関わりをみて、それを自己意識の諸契機と捉えてきた。それに対しヘーゲルは、自然へのアプローチを哲学的自覚の行為としてとらえた。その歴史的、発生的把握のゆえに彼の労働論は正しいのである。

そして批判が再開される。

ここでは客観的事物は思考上のものとして現われる。そして主体は自己意識(人間の意識)である。したがって事物が現れてきてもそれは意識(抽象的) の姿を変えたものにすぎない。自己意識は事物の形で現れる抽象的意識に働きかけ、絶対値の形で抽象的意識との同一性をかちとるのである。

すなわち自分自身の中だけで行われる「純粋思想の弁証法」がその成果である。

5) 絶対知に示されたヘーゲルの一面性と限界

どうもマルクスにとっては、これまでの部分は前書きのようである。

絶対知。現象学の最後の章。以下はマルクスによる要約である。

A.「対象化された自己意識」の克服

主要点はこうだ。意識の対象は自己意識である。さらに言えば、対象化された自己意識である。

肝心なことは「対象化された自己意識」を「克服」することである。

「対象化された自己意識」は自己意識(人間的本質)に照応していない。なぜならそれは人間的本質を剥ぎ取られ、疎外されているからである。

疎遠な環境のもとで産出された対象を我が物に取り戻すことは、疎外を止揚し、対象性を止揚することだ。そして人間は対象的でない、唯心論的な存在へと回帰する。

B.人間が自己意識に等置される

では意識が「対象化された自己意識」を克服するためにはどうしたら良いか。ヘーゲルは以下のように説明する。

対象は自己意識の中に帰還する。しかしそれだけではない。人間は自己意識に等置されるのである。

ここで「自己」は人間の抽象である。彼の眼や耳が自己であるように、人間そのものも自己性を持つ。彼の持つさまざまな力は自己性を持つ。それは自己意識とは別の自己性である。

この「自己性」は抽象され固定されると、「抽象的なエゴイスト」としての人間を生み出す。それは自己主張がその純粋な形に、そして思考にまで高められたものである。

ところで、自己意識もまたそれらの人間の自然的本性の一つである。人間の自然的本性が自己意識の要素なのではない。(この最後の1行はマルクスのコメントのようだ。だがそれ以上は展開されない)

人間的本質と自己意識

現実の人間にとっての疎外とは、現実的な疎外であり、それが知識や思考に反映されたものである。

しかしヘーゲルにとっては、「現実の人間」とは自己意識である。だから人間的本質が疎外されるということは、自己意識の疎外にほかならない。現実的な実在的な疎外は、自己意識の疎外が現象として現れたものに過ぎない。これがヘーゲル現象学のものの見方である。(この場合の「疎外」は対象化と読め)

そのために、疎外された「対象的な自己意識」を我がものに取り戻す過程は、すべて自己意識への合体として現れる。

ヘーゲルはこう表現する。ここは「精神現象学」の最終章のマルクス流の抜き書きである。

1.意識の対象は、意識にとっては消え失せてゆくものとして現れる。(「意識の対象」というのは実在の世界。意識にとっては虚ろな過ぎ去っていくものであるが、実在の側から見れば意識こそが過ぎ去る旅人だろう)

2.意識の対象に「物性」を措定するのは、自己意識の外化である。(実在世界の諸物は「意識の対象」とされ、「物性」(意味付け)が措定される。その物性は自己を離れて諸物に所属する)

3.自己意識の外化には(意識が離れるという)否定的な意義だけでなく、(対象が自己にとって意味付けられるという)肯定的な意義がある。

4.自己意識の外化は、外化された自己意識自身にも(意味付けという)肯定的な意義を持つ。

5.対象は再び否定され、止揚されるのだが、この過程で自己意識が肯定的意味を持つのは、対象そのものが否定性を持つからである。(対象に付着した自己意識は、対象の点検・矯正を受けるということか)

マルクスはこの第5項にこだわって、さらに書き足す。

対象の(内包する)こうした否定性は、自己意識が自己自身を外化するときに初めて出現する。

この外化のなかで自己意識は、実在的人間の衣装をまとう。そして可視化した自己自身を、対象であり自己自身でもあるもの(対自有)として措定する。

(このへんはかなりヘーゲル的論理マジックだ)

6.自己意識はみずから対象化することで、対象的自己をふたたび自己の中に取り戻す(止揚)。このとき自己は他在(One of them)のかたちをとりながら自己意識のもとにある。

7.以上の全体が意識の運動である。そしてこの運動を貫く主要な契機(駆動力)は意識である。

8.対象は全体として体系を持っている。対象は体系を持つことにより、即自的に精神的なものとなる。意識はさまざまな対象に、それらの体系にそって関係する。それは自己として把握される。そして対象を総体として把握する「精神」が形成される。

以上が精神現象学の骨組みとなる。というより、あえて言えばマルクスのヘーゲル現象学理解の骨組みだ。率直に言ってマルクスはヘーゲルやフォイエルバッハを知るための最悪のガイドだ。()内でヘーゲルの筋立てを独自に説明した。


ここで作業を一旦中止する。ヘーゲル現象学というものが、せめて骨組みだけでもわからないと、マルクスの議論にはついていけない。ところがマルクスの文章を読んでも、ヘーゲルが何を言わんかとしているかが全然見えてこない。()の注釈程度ではとうてい間尺に合わない。


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