マルクスはヘーゲル弁証法の乗り越えに失敗したのかもしれない。酒が入ってのほら話なので、どうかご容赦を。

「ヘーゲルの弁証法は正しい。しかしそれを用いて築き上げたヘーゲル哲学は間違っている」というのはどう考えてもおかしい。

「天地がひっくり返っているのだから、それをもう一度ひっくり返せば良い」というのは、およそ哲学者の吐くセリフではない。しかしどうも終生マルクスはそう信じていたようだ。

資本論の中にマルクス弁証法があるという人がいるが、それはカテゴリー構築の方法としての弁証法だ。

我々がもとめているのは、実在としての世界とその運動、人間の認識する世界との関係である。

実在の世界といっても大小2つあるので、小さい方は感性的実在の世界。大きい方は感性的には把握できないが、論理的には存在するであろう「モノ自体」(カント)の世界である。

ところがカントの生きた時代から比べるとヘーゲル時代の知識ははるかに広がった。そうすると「モノ自体」と考えられてきたものが、感性的実在に変わっていく。

カントとヘーゲルのあいだにはフィヒテとシェリングがいるので、話はかんたんではないが、人間の持つ能動性を計算に入れないと、「モノ自体」問題は解決できないことが明らかになった。

そこで「否定の否定」という形で、歴史的な観点を導入したのがヘーゲルということになる。彼は大変に博識で、ということは新しいもの好きで、しかも要領の良い人物だったから、うまいこと旧体制派の気に入るような形にヘーゲル哲学を仕上げてしまった。

プロテストソングのスターだったはずが、いつの間にか商業ベースに乗ってニューミュージック系の大御所になってしまったのである。

面倒になるのでフランス大革命からナポレオン帝政への歪曲、そしてメッテルニッヒ反動へという苦い時代背景は、この際省くことにする。

当然、若い人々はヘーゲルの変節を詰り、その予定調和的な観念論を批判する。これは当然だ。同時にヘーゲルがいかにして変節していったのかを探る動きも出てくる。

その中にエンゲルスという変な男がいて、ヘーゲル弁証法を使ってイギリスの経済や労働者の状況を批判する文章を発表した。

これが俄然マルクスを刺激した。マルクスはそれまでフォイエルバッハの信仰者として、ヘーゲルの観念論を批判していたが、観念論対唯物論の対立ではなく、弁証法を用いてヘーゲルを批判するというアイデアを思いついた。

ところが「疎外された労働」などの概念を用いて議論を展開するうちに、にっちもさっちも行かなくなった。

そこでヘーゲル弁証法の原点である精神現象学に立ち返って、本当に弁証法が使える方法論であるか否かを吟味してみようということになったのが、この文章であろうと思う。