三浦つとむはエンゲルスを根拠にしてレーニンの誤りを批判しているようです。それが「真理と誤謬」論です。

エンゲルスは『反デューリング論』の中で次のような記述をしています。読みやすくするために、かなり文章を細切れにしています。

真理と誤謬とは、ごく限られた領域に対してだけしか、絶対的な妥当性を持たない。それは全ての思考規定と同様である。

「限られた領域」とは、(真理と誤謬とが)両極的対立において運動するところである。

両極対立というものは(限られたものであって)十全なものでない。これは弁証法の初歩である。

真理と誤謬との対立を、(両極対立の)領域以外に適用することもできる。ただしその際、この対立は相対的なものになってしまう。

大抵の場合、物事の認識には正しいところもあれば間違っているところもあるということでしょう。

(状況が変われば)対立の両極はそれぞれの反対物に転化し、真理は誤謬となり誤謬は真理となる。従って精確な科学的表現法としては役に立たなくなる。

(第一篇 哲学 第九章 道徳と法・永遠の真理 国民文庫Ⅰ p157)

平ったく言えば、「真理も誇張すれば過ちとなる」ということです。

ただ、むしろエンゲルスが言いたいのは、誇張したために誤りとなったとしても、誇張しなければ真理であることが大事なのだということでしょう。それは「本当の真理ではない、従って何ら真理ではない、従ってそれは誤謬である」ということになっては困るのです。つまり真理というのはTPOを持っていて、その条件内では、ますます真実になるということです。

もう一つは、ちょっと難しいのですが、TPOの枠が歴史的には変わりうるとも言っています。「定められた限界内においても、将来の研究によってそれがなおもっと狭く限界づけられたり、それの解釈が変化したりする可能性」があると、エンゲルスは言っています。


ただ、ここで真理と誤謬という言葉で議論するのは、なんとなく違和感を感じてしまいます。誤謬という言葉に対置するのなら、ふつう日本語なら、「正解」というべきではないでしょうか。

この用語上の問題は結構重要です。つまりここでエンゲルスが「真理」と称しているものは、認識の正しさに関わる問題であって、どこかに鎮座ましましているような「客体」ではないということです。

率直にいって、エンゲルスは「真理は存在するか」という問いへの答えをはぐらかしているように見えます。「真理の認識可能性」の問題は、存在論ではなく認識論です。

エンゲルスはときどきこういうことをやります。「自由は必然性への洞察にある」なんていうのは、その典型ですね。

三浦さんが論争を仕掛けた時代には、まだ人口に膾炙していなかったのかもしれませんが、やはり経哲手稿(第3手稿)あたりから入るべきではないでしょうか。