三浦つとむの言語論は独特で、なかなか面倒だが、亀井秀雄さんという方が総括的に説明してくれている。


亀井秀雄 Author's Preface to the English Translation

という文章から

三浦が、『日本語はどういう言語か』で展開した研究の要点は、観念的な自己分裂という概念と、規範という概念にある。

1.観念的な自己分裂

例えば私が鏡に自分を映してみる場合、 現象的には確かに私が見ているわけだが、意識のなかではこれから自分が出かけて行く会合や、これから合う人を思い浮かべ、その人たちから自分がどう見られ るかを予想しながら、髪を整えたり、着て行く衣服を選んだりする。

つまり私は、現実の私の眼で自分の鏡像を見ると共に、これから合う他人の側に立って、他人の眼の位置に自分を置いて自分自身を眺めるわけである。

このように私たちが観念内では自分の眼を二重化している。

それがかれのいう観念的な自己分裂なのである。

と、出だしからえらく面倒くさいシチュエーションを想起しています。もう一つの例示はそれに輪をかけています。

また私が目の前の風景を写真に撮った場合、その写真のなかに自分の姿が写っているわけではないが、どの視点位置から撮ったかは写真の構図に反映している。

このように写真のなかにはそれを撮った人の視点位置が映されてしまう。

このような現象から、映された・表現された対象は鏡としての性質を持つと考えられる。

三つ目の例。

私が誰かに自分の家を位置を教えるために、鳥瞰図的な地図を書いて見せる場合、書いている現実の私は地上に立っているのだが、観念的にはずっと高い位置から見下ろす形で、私の家の位置を地図に書いていることになる。

この地図は、 三浦の理論に即して言えば、観念的に分裂した、もう一人の私の視点を反映する鏡でもあるわけである。

これらは亀井さんの文章からの引用なので、三浦つとむが果たしてそのように語ったのかどうかは定かでありません。
ただ、私の印象としては、きわめて映画的な例示のような気がします。というのも、三浦は戦前・戦中を映画評論を中心に活動していたようなのです。映画を見ながら、あるいはその台本を見ながら、あるいはあるシーンを頭に思い描きながら、例にしているのではないかと想像します。
一般的には即自的自己と対自的自己と言ってしまえばすむことですが…

私たちが話し相手によって「私」「俺」 「僕」などに使い分けるのは、話し手が場面や聞き手との関係を反映させているからなのである。

時枝は日本語を、概念化を経た語と、主体を直接に表出した語とに大別した。三浦は概念化を行うことを客体的表現、主体の視点や立場を辞で現わすことを主体的表現と呼んだ。

2.規範

三浦つとむの理論のもう一つの重要な要点は「規範」という概念である。かれはヘーゲルの『法の哲学』をベースに、意志の対象化されたもの として規範論を展開している。

個別規範: 例えば私が医者から「酒や煙草はやめたほうがいい」と忠告されたとしよう。もし健康を維持するために私が従うことにしたら、この規律は自分の意志で選んだものでありながら、あたかも外部から自分を拘束する命令であるかのような働きをする。この規律は虚構性を含んでおり、単なる意志とは区別されなければならない。

特殊規範: 私が他人と結んだ約束や契約は、一方的に破棄することはできない。約束や契約はお互いの「共通の利益」を実現するために作る「共通の意志」だからである。この特殊規範は「観念的な人格」を担っている。「観念的な人格」の代行を法や、法の執行者た る国家権力に求めることもできる。

普遍規範: 「個別規範」や「特殊規範」はそれを作った当事者だけを拘束する。これに対して、「普遍規範」たる法は共同体のメンバー全員に適応され、個々人の意志を超えた全体意志として作られ、強制力を与えられている。

階級社会にお ける「共同」の利害とはじつは支配階級の「特殊利害」であるが、支配階級によってあたかも「共同」の利害であるかのように偽装され合理化されている。しかし「普遍規範」として成立した法は、個々の資本家や企業の意志と対立し、拘束することがある。

言語の規定をするのに、なぜ、長々とこのような講釈をたれるのか分かりません。スポンサーの吉本隆明へのヨイショかもしれません。ここからやっと本論です。

3.言語規範 

言語規範は人間の長い歴史のなかで自然成長的に育ってきた規範である。それは一まとまりの有節音と概念との結びつきに関する社会的な約束である。自然成長的な規範は、具体的な現象形態を抽象して見出されるものなのである。

現象形態と規範とは区別されな ければならない。私たちが日常的に交換する具体的な発話は言語であり、ソシュールのいう「言語」は言語規範を指すことになる。

ここで、亀井さんは三浦つとむの時枝との分岐を指摘しています。時枝誠記は、ソシュールの言語が観念的な抽象物でしかないと批判したが、三浦は「それもありじゃないか」という意見みたいです。ただそれは言語そのものというよりは、「言語に関する約束事」ととらえたほうがいいんじゃないかということのようです。ただ結局その論争の枠からは抜け出せていないようです。
必要なのは、「猿が人間になるについての労働の役割」と同じように、「ヒトが人間になるについての言語の役割」みたいな歴史的・発生学的観点でしょう。

ということで、三浦つとむは言語規範論の展開に入っていきます。つまりソシュールの言語とは、かなり守備範囲がだぶることになります。

言語規範には音声的な側面と、概念の側面がある。音声的な側面は感性的・物質的であり、概念の側面は超感性的・非物質的である。

言語規範の持つこの二面性は、「人間が精神的な交通のために実践的に生み出した非敵対的な矛盾の一形態」なのだそうですが、この辺りから、独特の匂いがちょっと鼻につくようになります。そろそろ潮時でしょうか。


ということで、三浦か亀井かどちらの責任かは知りませんが、「言語とは何か」という問題設定に対しては、盛大に的を外している印象です。