1.「欲望」という言葉を限定する

欲望が物質的過程だというのは、表現としてはこなれていない。ヘラーの本に「欲望には物質的欲望と非物質的欲望がある」と書いてあったのが気になったので、「欲望というのは基本的には物質的欲望だろう」と主張したかったのである。

そもそも「欲望」という言葉が多義的である。我々の常識で言うと、“欲する”ことと“望む”こととの間にはかなりのニュアンスの差がある。それに、やや倫理的・文学的な響きを持っている。“欲する”方にウエイトを置くなら、むしろ「欲求」のほうが近いかもしれない。ただ、この場合も“欲する”というのがどちらかと言えば内面的過程なのに対し、“求める”というのはより具体的、個別的なニュアンスがある。

英語ではWants という表現になるだろうが、これだと欠乏に対する“飢え”みたいなものが前面に出てきてしまい、やや狭すぎるような気もする。

とりあえずは「欲し求めること」という動名詞、一つの心理的行為として、「欲望」という言葉を扱っておきたい。このへんの具体的な語感はだいじにしなければならない。

2.価値はどのようにして生まれるか

欲望の対象は価値である。具体的には使用価値である。

ケネーの経済表は、マルクスをふくむ全ての近代的経済学の出発点であろう。

ただ経済学者が経済表の真価を理解しているとは言いがたい。なぜなら彼らはすぐに再生産諸表のモデル化に行ってしまうからだ。それこそ「ケネーの経済表」の批判するところなのだと思う。

私が思うには、それは「価値」とその源泉、そしてその形成過程に関してどのような哲学書にもまさる解答を与えている。

ケネーの目的は重商主義の批判であったが、実際には「経済表」は重商主義を否定するのではなく、それを乗り越えて、経済学に時間軸を持込み、「発展」=価値の付加・創設という概念を付与したのだ。そこに核心的意義があるのだと思う。それは自然エネルギーの固定化、人間の手による使用価値の付加によって実現される。

3.価値と欲望は鶏と卵の関係

マルクス(とヘーゲル)はそれに2つの哲学的事実を付け加えた。

ひとつは、生産(生産的労働)が価値の再生産過程の一コマであるということ、したがって再生産過程としての「営み」の全体を見ていかなければならないということである。

一つは、生産が消費と一体の関係(鏡像的)にあり、消費の過程は欲望の充足過程であると同時に、欲望の生産過程でもあるということである。

4.価値も欲望も拡大再生産される

この二つから言えることが二つある。

一つは欲望の根源が物質的消費過程にある以上、欲望は根本的に物質的(物質規定的)である。それは共同体により社会化され、言語によりシンボル化されるが、そして一見非物質的に見えることはあるが、物質的であることをやめない。

もう一つ、生産の本質は拡大再生産である。したがってそれは欲望(物質的)の拡大再生産をもたらし、それを前提とする。平たく言えば人間は豊かになるほど貪欲になるのである。

これは脳科学では説明できない。