内言語(inner speech)は内言とも言う。内言のほうが間口が広くて良さそうな気もするが、とりあえず内言語で統一しておく。

内言語の定義には二つある

内言語の定義には二つある。

一つは、形態的なもので、「声にして出さない言語」ということになる。

もう一つは、目的的な定義で、「自分自身にのみ発せられる言語」という定義である。

それから派生することとだが、内言語はコミュニケーションという「言語のもっとも基本的な目的」を失った言葉である。その代わりに自由に飛翔する。

いずれにしても外言語から発生し、そこに戻っていく言語(戻らない場合もあるが)ということだ。それは動物が植物の発展によって規定されるのと同じように、外言語の発展に従属した言語である。

二つの定義があるから、二つを満たさない内言語というもあることになる。例えば本を音読する時、形態としては声を出しているので外言語だが、誰に聞かせるのでもなく自分だけに語っているのであれば、「気分」としては内言語と言っても良い。本人にとっては音読か黙読かの違いは、ほとんどどうでもよいことである。

言語の形成過程

言語はまず視覚的知覚と聴覚的知覚の結合として出現する。まずは母親の身振り・手振りと母親の言葉が結びつき、シンボルとなる。こっちが笑ったら向こうも笑うとか、泣いたら御飯が出てきたとかというかたちだ。次いでこのシンボルがコミュニケーションの道具だということに気づく。これは条件付けで強化される。

言葉がある程度溜まってくると、言葉を理解する内言語が育ってくる。これは第一段階の内言語である。最初の内言語は外言語に先立って形成される。おそらく形成される脳内場は知覚性言語野(ウェルニッケ)であろう。

ウェルニッケ野はもともと聴覚の識別をする機能を担っていたとされる。ここで言葉の収集・識別・整理が行われるのだろう。

この最初の内言語は模倣(反復・独語)を通して外言語化される。こちらが形成される脳内場は運動性言語野(ブローカ)ということになろう。

ブローカの機能は、もともと手の動きを模倣(ミラー・ニューロン)することにあったと言われる。

発達心理の場面で問題になるのはこの段階の遅れのようだが、それは発語能力の発達が運動神経の発達を必要としており、一種のスキル(コツ)に属する能力だからであろう。自転車に乗るとか、水泳を覚えるとかと同じだ。

内言語の二つの段階

すなわち、発達段階としては、まず言語刺激(聴覚刺激と視覚刺激の結合によって生み出される表象)が内言語の発達を促し、ついで内言語の表現技術として外言語の形成を促すのである。

これにより、言語刺激が内言語に置き換えられ、それに対する応答が形成され、それが外言語として表出されるというループが出来上がることになる。しかしヴィゴツキーの主張する内言語論はこの段階の内言語ではない。

初期段階においては、内言語は外言語を引き出すための準備手段として機能している。

そこにおいては外言語は外言語ではなく言語的応答にすぎない。外言語というのは道具であり、それは聞いて話して、対話するための手段である。したがって、本格的な外言語の世界はこれから始まるのである。この時点では外言語に照応した内言語の世界もまた未形成である。

このループはやがて猛烈な勢いで回り始める。そして猛烈に回転しながらその成果を蓄積し始める。ここでは外言語と内言語は渾然一体(喃語・言葉遊び)となっている。

やがてそれが異なる「いとなみ」として再分離していくのである。その段階における脳内場はウェルニッケ野やブローカ野より上位に位置しており、はるかに莫大な記憶装置を具備していると思われる。

ピアジェとヴィゴツキーのすれ違い

ヴィゴツキーはピアジェの「生物学的な人間観」を批判した。つまり自然的かつ自生的に言語・思考が発達していくという考えだ。

しかし、「視覚と聴覚との結合から生じるシンボル」の受容という内言語の発生過程は、脳の特定の部位の予定調和的な発達の過程であり、まさに「生物学的」なものだ。

その点ではピアジェのほうが正しい。しかしピアジェがその証拠としてあげた「自己中心性言語」は、実は発達心理学の例証としてあげるべきものだった。

これを批判したヴィゴツキーは正しい。だが少々感情的で論争的にすぎる。ピアジェ自身が後悔しているように「自己中心性言語」はあまりにもひどいネーミングだ。「自分自身に向かう言葉」というべきだ。「自己中心的心性」というのも、「自己回帰期心性」、あるいは「自己確立期心性」という方が正確だろう。

いずれにしても、内言語の基礎には、個体に刻印された遺伝子の展開という「生物学的」発達がある。エンゲルス風に言えば「内言」というのは「否定の否定」なのである。このことも間違いのない事実である。

チョムスキーによる内言語の位置づけ

ついでながら、チョムスキーは、内言語を脳の中に実装された知識体系として理解している。これに対して外言語は内言語を外界に表出する現象だとしているようだ。

これはソシュールの平面的理解への批判としてはあたっているが、カント的で、ちょっと一面的な規定である。内と外とを問わず、言語は言語活動であり営為であって当為ではないのである。