やはりヴィゴツキーの限界は指摘しておかなくてはならないでしょう。なぜなら、ヴィゴツキーの達した時点から、私たちは出発しなければならないからです。

一つは主体の弁証法がふくまれていないということです。自分があって自分を取り巻く集団があって、その中で自己が形成されていくという関係は、自己意識の発生の一面でしかありません。

自己が環境を対象化し、そのことによって自己をも対象化していくという発展の弁証法は、やはり無視できないでしょう。デューイのプラグマチズムを批判する際に、たらいと一緒に水も流してしまわないよう注意が必要だと思います。

ふたつ目は、発達に対する教育の役割を度外れに強調する傾向です。そのような思いは全くないのでしょうが、結果的には発達の許育の隷属化ともとられかねない表現がときどき顔を出します。

もちろん教育の役割はいくら強調してもし過ぎることはないのですが、基本的には、各々の人格が、各々の内的葛藤を通して、すなわち自己の内部矛盾を駆動力として内的に発展していく過程がまずあるのだ、ということは踏まえておくべきだと思います。

三つ目は、少なくとも3,4歳位の子供までにおいては、その発達は、かなりの程度まで生物学的に説明できるということです。したがって過度に社会学的要因を持ち込むことは過ちを生みかねないということです。

人間は寿命が長い分、持って生まれた遺伝子が全面開花するまでは時間がかかります。その間、いわば系統発生を繰り返しているのです。

人間はおぎゃぁと生まれた瞬間すべての人間的能力を具備しているわけではありません。したがって社会的要因はきわめて副次的なものにとどまっています。OSと基本ソフトを積んだだけの出荷時状態のコンピュータのようなものです。あまり教育心理学とか発達心理学などが介入する余地はありません。

ヴィゴツキーの持つこれらの限界は、何よりもまず心理学そのものが黎明期にあったことによって規定されています。そしてヴィゴツキーは開拓者たちに論争を挑んでいることから、論建ての性格上、多少の行き過ぎは避けられません。

さらに、二つの技術的制約が指摘できます。ヴィゴツキーはDNAの存在すら知られていなかった生物学の発展段階に規定されています。CTもMRIもなく、脳科学の基礎は無きに等しい状態でした。

さらに類推の手段としてのコンピュータの概念が全く利用できないという、歴史的限界に規定されています。いまの我々がコンピュータの論理をフルに駆使することなしには議論を展開できないことを考えれば、その限界は明らかです。

哲学的には、マルクスの初期草稿がまだ広く知られていない下で、マルクスとヘーゲルをつなぐ哲学的流れが理解されていなかったという問題も指摘しておくべきでしょう。さらにマルクス主義哲学のスターリン的歪曲が拡大しつつあったという特殊状況も指摘して置かなければなりません。

しかしヴィゴツキーの言わんとしたところは、かなりの程度までピアジェに受け継がれています。したがって我々は安んじて後期ピアジェの言説に従って行くことができるでしょう。

さらにアンリ・ワロンはこの論争や、その後の生物学的理解の深まりも踏まえ、人格形成についてのより包括的な議論を展開しています。

このような観点を踏まえながら、内言語問題に進んでいかなければならないと思います。