言語と思考の関係がもう少し論理化されないと、脳科学は進めない。

その一つが非言語的思考だ。

前の記事で、「内言語はそれ自体が思考過程だ」と書いたが、それは違うようだ。

考えてみると、非言語的思考過程はたくさんある。若い人たちの熱中しているゲームの殆どは非言語的だ。後からその過程を説明するのに言語化を行っているにすぎない。

数学のほとんどは非言語的だ。ただそれを教えるためには言葉による説明が必要だ。しかし実はそれらの説明は、数学的過程を説明しきれていないのである。

英語の詩を日本語に翻訳して「どうだ、いいだろう!」と言われても、いまいちわからないし、ましてや「原文で読め!」と言われればさらに分からない。

言語でもこういう壁はあるが、「非言語的言語」を相手にするときはさらにその壁は高くなる。

と、私たちはともすれば被害者意識を前面に出してしまうが、実はその世界に習熟してしまえば、言語世界よりはるかに分かりやすいという側面もある。

例えば囲碁や将棋の世界、スポーツの世界、芸術の世界…。我々の周囲には言語的世界の何千万何万倍もの非言語世界が広がっている。そこでは言語を介さない思考過程が旺盛に展開されている。

ひょっとすると、それは人間以外の動物世界にも広がっているのかもしれない。

言語世界はそのような知的世界の、ほんの片隅に位置しているにすぎない。ただ我々はそれらを言語世界の窓を通じてしか接することができない。

言語作業というのは“One of Them”だが“Key of Them”でもあるという特殊な役割を持っている。いわば思考世界が相互交流する際の「通貨」のようなものである。それは入り口(あるいは出口)として決定的な作業なのである。