聴覚言語と視覚言語、そして内言語

この三者の関係がどうもまだしっくりしない。

もともと言語というのは視覚なしに成立・完成している。

成立しているということは、内言語と一体となっているということだ。

内言語というのは自分の頭のなかで喋ったり聞いたりしている言葉だ。

それは音の量・質であるとともに、時間の流れを必要とする。

それはおそらく、ほぼそのままに思考過程でもある。

これに視覚言語が加わる場合、それはどこで統合され、一体化するのか、そこが今のところ良く分からない。

つまり聴覚言語のレベルで一体になって内言語を形成していくのか、内言語の形成後にその受容・表出の手段として付加されるのかということだ。

ここは、人類の歴史の事実と個々人における発達の段階論とは、ある程度分けて考えなければいけないところだろう。

まずは視覚言語の発生のメカニズムから考えなければならないだろう。そこにはいくつかの段階があり、それぞれにおいて聴覚言語と結合しているだろうと思う。そして最終的なステージにおいて初めて、それは内言語と結びつくのではないか。

視覚言語の発生

視覚的シンボルは人類以前からある。これが「記号」化されるのは人類の比較的初期の時代のことと思う。

だがこれには時間の流れがない。例えば一連の記号の連なりで意味を表すことはあっても、それは言語ではない。

それが連続動画として、流れの中に意味があるような視覚形態がなければ言語をもたらすことはない。

例えば、マヤ人やインカ人の間には縄文字のようなものがあって、かなりの多様な意味を持たせることができたようであるが、これだけでは記号であり、数字であっても言語ではない。

内言語(聴覚言語を用いた思考過程)には対応できないのである。

文字能力の獲得のためには、物理的残像だけでは不足である。揮発性ではあるがもう少し持続の長い一種の心理的残像が必要だろうと思う。それと同時に、それを一つながりの紐として認識するための演算回路が必要だろうと思う。

それは人間が生来備えているものではなく、脳の中に“アプリ”として形成しなければならない能力だろうと思う。もちろん、長年の世代の積み重ねのなかで、それがEpi-DNA的に引き継がれているとは思うが。

それらのハードないしOS的な積み上げがあって、初めて聴覚言語との結合が可能になるのだろう。

これから先は、まだ勉強していない分野だ。表意文字から表音文字への転換などは、自然科学というよりは文化の範疇に属する問題なのかもしれない。