2015年3月8日、東大農学部構内に,「ハチ公と上野英三郎」像が完成した。この日はハチ公没後80年にあたる。

「農学資料館」があります。 ホームページには、「 こちらには,ハチ公の臓器を展示しております。合わせてご覧ください」という、なかなかシュールな案内がある。

秋田犬のハチは1923年(大正12年)、大館市に生まれ、生後まもなく東大農学部教授の上野英三郎博士に贈られた。

博士はハチを大いに可愛がり、駒場の農学部への通勤時に、渋谷駅まで送り迎えをさせた。

2年後、博士は大学構内で急逝した。

この日、迎えに行ったハチは上野に会えず、上野の最後の着衣を置いた物置にこもって3日間何も食べなかった。
その後、毎日、朝夕に渋谷駅に通うようになる。


上野夫妻には実子がなく、妻の八重さんは家屋の相続を拒否された。ハチは、上野博士に恩のある植木職人に引き取られる。

ハチは死ぬまでのほぼ10年間、朝夕に渋谷駅に通い、博士の姿を探し求めた。

1932(昭和7年)にハチの記事が新聞に掲載され、世に知られることになる。最初の銅像は昭和9年に建てられたが、戦争のための金属供出で溶かされてしまった。現在の像は戦後再建されたもの。

1935(昭和10年)3月8日、ハチ公死去。


ハチ公シンポというのが開かれて、そこで一ノ瀬 正樹さんという方が倫理学的検討を行っている。(「犬と暮らす」ということ-ハチ公をめぐる哲学断章-)

人間が犬と暮らす、というのは、人間ではなく、犬の側から見たとき、そもそも果たして理想型と言えるのだろうか。

自然のまま、人間とは独立に暮らす方が、幸せなのではないか。

犬を飼うことは、ひとえに人間の側からの人為であって、犬が望んだことではないのではない。

(犬を飼うという)習慣そのものが、道を踏み外したものなのではないか。

これらの疑問を前提として、犬を飼うときに守るべき原則が2つある(とされている)。

一つは不自然な束縛を極力与えず、自然に近づけること。一つは、飼う以上は、その“福祉”を十分に考慮すること、である。

てなことを、常識的事柄として、一ノ瀬さんはそこに良質な“人生”を紡ぎだすことを、「第3の原則」として打ち出す。

その前提として、犬がペットとして存在し、その生を生きることを「自然の摂理」、あるいは「種の摂理」として受け入れようではないかと呼びかける。

なぜなら、ペットであること、ペットとすることは、互いにとって“習い性”となっているからだ。

原理原則を批判的に検討することと、現実に発生してしまっている事態に対応することとは、次元が異なる。

犬と暮らすことが習い性となった以上、彼らとともに、幸福を追求していきたい。

そう考えたとき、ハチ公の物語は現条件の中での最善を示唆する好例である。少なくとも人間の側が、物語に接して、良き関係を築いていく立場に接近するのは積極的な意味があると思う。


ということなんだが、何かダマされているような気がしなくもない。

とにかく、「風と共に去りぬ」で出てくるような忠実な黒人奴隷とは異なるので、彼らは本来自由であるべきなのだ。

しかし白人の主人たちは、忠犬ハチ公と同じレベルで黒人を見ていた可能性は否定出来ない。

忠犬ハチ公を見るときに、あるいは昨今のペット・ブームを見るにつけ、2つの関係を峻別する論理は何なのかが

問われていると思う。