ベルリンの片岡特派員が続けざまに、重要な歴史事実の掘り起こしを行っている。
今回はナチス下ドイツでのレジスタンスについて。
これはドイツのレジスタンス研究家ギュンター・ウェーナーさんへのインタビューである。
ウェーナーさんはゲシュタポの資料に基づいて「ナチ独裁に抵抗した人たちの思い」を引き出している。
2002年には共同執筆で「ベルリンのレジスタンス人名辞典」を刊行している。ベルリンの話は、その後の東西冷戦と、\の分厚い蓄積の下層に沈み込んでおり、これまであまり知ることができなかった。
初めて知る事実がたくさんある。
1.レジスタンスの全体像
当時のドイツの人口は8千万人くらいですが、その内2%がレジスタンスに加わっていたと言われます。大都市ではもっと多く、ベルリンでは名前が分かっているだけで約2万人が参加しました。多い時には1ヶ月で3千人が逮捕されました。その内7千人が処刑されました。
すごい数だ。参加者数もすごいし、それが決死の活動だったことも分かる。
2.ハインツ・カペレの活動
ハインツ・カペレは1913年生まれ、ナチが政権をとった時に20歳ということになる。彼は青年のレジスタンス組織を作り活動した。
ハインツ・カペレのグループは、ヒトラーの演説がいかにウソに満ちているか、戦争が近づく危険性を訴えたビラを1万2千枚作り、工場や電車で配布しました。それは手書きではなく印刷したビラでした。印刷工場に働く仲間の助けがあったのです。
3.「社会労働党」グループ
この党は、33年にヒトラーが権力を掌握したあと、偽の解散宣言をし、その後地下で30ヶ所以上の拠点を持ち、36年まで活動しました。その後は多くの活動家がスペイン内戦に参加しました。
この小さな政党グループは、これまで殆ど知られていなかったが、最近になってウェーナーさんがゲシュタポの資料の中から偶然見つけたものだそうだ。
4.「赤いオーケストラ」グループ
これはより直接的にソ連と接触していた半軍事的組織、スパイ組織のようだ。
「赤いオーケストラ」とナチスから名付けられたグループは、ドイツ軍の攻撃計画や輸送計画をソ連に伝えていた。
70あまりの企業に抵抗組織を持ち、2台の戦車まで準備していました。メンバーにはラジオ局で働く女性や空軍大佐もいました。
5.市民的抵抗
もちろんキリスト教徒や普通の市民のレジスタンスもたくさんあった。
軍需工場で働いていた人の中には、銃弾工場でわざとさんを多めに入れて使いものにならないようにしたり、42年に出るはずだった新しい機関銃の開発を遅らせて、44年まで引き伸ばしたりした人たちがいました。
安倍晋三が機密保護法などで国民をがんじがらめにし、戦争立法で国民を戦争へとかきたて、憲法改正でファシズムの支配する「美しい日本」の再現を推し進めようとしているいま、このような危機は明らかに迫りつつある。
ということでは、これらの活動をたんなる昔話として語ることができない時代に、我々は突入しつつあるのかもしれない。