赤旗のジェームス三木さんの連載が面白い。
やや露悪趣味気味の脱線もふくめて、「アカハタだから詳しくは書けない」ぎりぎりのところまで書いている。
以下の行は、思わず膝を打つほど痛快だ。
私は「なせばなる」という格言が嫌いである。
なせばなるなら誰だって東大に入れるし、甲子園にも出られるはずだ。
なしてもならないのが人生であり、やたらに気負って飛んだり跳ねたりしても、成功するとは限らない。
「少年よ大志を抱け」というが、大志を抱く前に、まず身の程を知ることが大切だ。
おそらくはジェームス三木さんの「自戒」の言葉であろう。
ただ、そうやってやみくもに突っ走ってきた自分の人生を、必ずしも後悔しているようには思えない。言葉の物言いとは逆に「身の程知らずの野心」を煽っているようにもみえる。
お前ら、身の程知らずの野心で行動するとひどい目に合うぞ。この俺みたいにな。まぁ、やめとけやめとけ。
という具合だ。このへんが一流の文筆家たる所以なのであろう。

ただ、この言葉、良く考えてみると、やはりおかしなところがある。
一つは為せば為したなりに…
入所で緊急事態。
続きは後で…

ということで書き始めるが、もうほとんど忘れている。
一つは為せば為したなりに物は成っているはずだということ。それが何かといえば、「自分のもの」ではないということだ。
為すのは私だが、成るのは私ではない。ここがミーイズムに陥ると、非常に議論は狭くなってしまう。
振り返って見るに、集団のひとりとして私は何事かを為したと思う。それはなかなかの存在となってそびえているし、戦前のファシズムへの回帰を辛くも阻止している。
ここに確信を持てるかどうかが、歴史的ペシミズムに陥らないための、安らかに成仏できるかどうかの鍵だと思う。
赤旗の党員のお悔やみ欄は毎日見ている。その繰り返しの中で培われた確信である。
もう一つは、とうてい実現不可能と思う課題であっても、それが大事なことであればやはり挑戦し続けるしかないということだ。多分これは信念に属する話だろうが。
挫折するのは、それが個人的で、たいした課題ではなかったからだ。
大事なのは、挑戦というのはただ一度のバクチではないということだ。それは日常生活であり、毎日の繰り返しであり、その積み重ねであるということだ。
大江風に言えば日常の暮らしの中で「持続する志」である。

繰り返しになるが、「為せば(それなりに)成る」のだが、そのすべてが自分に帰ってくるわけではない。間違っているのは「為せば成る」という考えではなく、「自分のためだけに何かを為そう」という考えだろう。