462年 武寧王が生まれる。墓誌によれば「寧東大将軍百済斯麻王」とされる。(武寧は諡号)

461年 日本書紀によれば、軍君昆伎王が倭国の人質となり、赴く途中に筑紫の各羅嶋で生まれたとされる。

478年 倭王武の上表文。これが倭王の上表の最後となる。この時点で倭国は百済、新羅、任那の支配権を認められていた。

481年 高句麗が新羅に侵入。百済・任那が新羅を支援。

500年 新羅で智証王が即位。この後、高句麗の支援を受け急速に国力を強化。

500年 新羅本記に「倭人が長峯鎮を攻め落とす」との記載があり、これを最後に倭の侵攻の記事は途切れる。

501年12月 東城王暗殺される。武寧王が首都熊津(現公州)で即位(40歳)。直ちに反乱軍を鎮圧。

502年 日本書紀によれば「東城王が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王とした」とある。

503年 国宝「人物画像鏡」 銘文によれば、斯麻が意柴沙加の宮の男弟王に捧げたものとされる。

日本書紀では、銘文に登場する人物の一人「開中費直」は河内直とされ『百済本記』では加不至とされる」との記述あり。

512年 武寧王、漢江流域に進出した高句麗と争い勝利。壊滅的打撃を与えたとされる。

512年 日本書紀によれば、倭国は百済に任那の上多利など4県を割譲。(事実上天皇不在の下で、大伴金村が執政として割譲を承認したことになっている)

513年 日本書紀によれば、倭国は百済に任那の2県を割譲。

514年 日本書紀によれば、百済太子(武寧王の長子)淳陀が倭国で死去。

517年 日本書紀によれば、百済は倭国に五経博士漢高安茂を貢上。

521年 武寧王、梁に朝貢し「強国」ぶりをアピール。梁は「使持節・都督・百済諸軍事・寧東大将軍」の位を授ける。同じ頃、新羅の法興王も梁に朝貢し独立国としての認定を受ける。倭の国力が急速に衰退していることが伺われる。

523年5月 武寧王が死去。

526年 新羅が南加羅を占領。倭国は渡海攻撃の準備に入る。筑紫の君磐井は新羅と通じ、渡海攻撃に反対。

527年 筑紫の君磐井の乱。

528年 毛野君、筑紫国御井郡で磐井本隊を殲滅。

529年 高句麗が百済を攻撃。百済は2千の死者を出して後退。

529年 毛野は渡海し任那と新羅・百済との調停を試みる。

530年 毛野、任那四村を奪われ、任那からも攻撃を受ける。

530年 毛野、帰還命令を受け帰国途中、対馬で病没。

532年 金官伽耶が新羅に投降。

538年 百済、首都の熊津を放棄、泗比を新たな首都とし、国号を「南扶余」とする。

541年 百済、新羅に対抗するため、任那復興会議(百済主導の伽耶諸国の連合)を提唱。倭の支援を求める。(W)

551年 百済、ふたたび新羅と同盟を組み高句麗と闘う。京畿道の漢山城生を奪回。

554年 聖王、倭国の支援を受け新羅と戦うが、管山城で戦死。威徳王が後を襲う。

555年 日本書紀によれば、威徳王が弟の恵を倭国に送り、聖王の死を伝える。

561年7月 百済、倭国の支援を受け新羅と戦うが、敗北し撤退。このあと任那は滅亡し諸国は新羅の支配下に入る。このあと、三国史記に倭国は登場せず。


1971年 公州市の宋山里古墳群から、約3000点近い華麗な遺物とともに墓誌が出土。王墓が特定される。

 

 感想

武寧王が40年にわたり人質生活を送った場所、長子淳陀を含めれば54年にわたるが、それは九州北部をおいて考えにくい。

40歳を超えて百済王になったのだから、即位時点での民心の支持は薄いと見るべきであろう。彼は倭国軍の威を着て支配権を握ったのではないだろうか。理由はいくらでもアトヅケできる。

武寧王即位直後から開始された百済と高句麗との戦争は、広開土王以来の第二次高句麗・倭国戦争であった可能性がある。

高句麗はこれに対抗して、新羅との連携強化に乗り出した。この結果、表面的には新羅・百済戦争に移行することとなったが、実体としては高句麗・倭国の代理戦争だったと思われる。

なお日本書紀の537年のくだりには、狭手彦という人物が登場する。これは実際には500~520年頃の事実と思われる。「磐は筑紫にあって国政をとり,狭手彦は渡海して任那を統治し,百済を救った」とある。

磐は磐井のことであろう。とすれば、狭手彦は毛の君だ。武寧王を押したて、渡海したのかもしれない。

いずれにしても、523年の武寧王の死、528年の筑紫の君磐井の死、530年の毛野の対新羅戦敗北と対馬での客死により、間違いなく一つの時代が終わったのだろうと思う。

2015年03月22日 「大伴金村」を名乗らされた人物

をご参照ください