古代日本には「君」と称されるポストが3つある(私の知る限り)。

筑紫の君、毛の君、そして火(肥)の君である。これらのうち毛の君だけが天武天皇の体制に抱合され生き残る。

「君」という位階は大和朝廷のものではないと思う。百済では武寧王の4代前の王である蓋鹵王が即位前は加須利君(かすりのきし)と名乗った。武寧王も即位前は嶋の君だった。


毛は北関東の上野・下野に比定されることが多いが、これは後の世のことであろう。

筑紫の君磐井をやっつけたのは近江の毛野ということになっている。近江には毛野の墓まであるそうだ。

しかしこれは近江ではなく北九州の松浦の人と考えるべきである(その論拠は以前述べた)。

とすると、毛の君は松浦-近江-北関東という線上で考えなければならなくなる。松本清張の小説みたいだ。

白村江の戦いを見ると、100年も前に敗れたはずの筑紫の君が再登場し、これが毛の君とつるんでいる。

とすると、北関東の勢力とは別に、朝鮮半島に近い北九州のどこかに毛の君の本拠があったと考えざるをえない。


それが呼子・唐津をふくむ東松浦、魏志倭人伝で言えば松盧の国である。その根拠はきわめて薄弱で、松浦佐用姫が背振の山で朝鮮の戦に乗り出す船を見送ったという説話にすぎない。

ただ、地図を見れば分かるように、呼子は壱岐島からわずか20キロ、指呼の距離にある。半島からの船がまず着くとすれば、ここ以外に考えられない。

少なくとも、ここが親半島勢力の拠点であった相対的可能性は高い。

以前の文章で、磐井の反乱を鎮圧したのは百済ではないかと書いたことがある。この事件に関して日本書紀の記述が異常に詳しく、おそらく百済本紀を引用したのではないかと思われるからである。

ただ松浦の親半島勢力が逐一戦況を百済政権に報告していたとすれば、そのへんは辻褄が合う。

倭王朝と毛の君との関係

「君」は英語で言えばPrince であろう。連合王国を形成する諸王の一つである。おそらく倭王朝は那の国にあったのだろう。

松浦~唐津を勢力範囲とする毛の国、鳥栖~柳川を勢力範囲とする筑紫の国、三池~菊池を勢力範囲とする火の国と地図に描けば、その中心は福岡(那の津)にあると考えざるをえない。

ただ倭王朝は武王の死後、非常に弱体化しており、毛の国、筑紫の国、火の国あたりが摂政を出してその軍事力を背景に倭王朝を仕切っていたのかもしれない。

ちょうどこの時期に百済の武寧王が倭王朝で人質生活を送っており、その経過から倭王朝の動向をうかがい知ることが出来る。

かくして那の倭王朝の支配権をめぐり内紛が始まった。そして半島勢力とつながる毛の君が勝利した。磐井が豊前方面に逃れたのは、毛の君と火の君が連携・挟撃したためかもしれない。

これ以降倭国は任那の支配権確保をめぐり新羅と争った。その主体を担ったのは毛の君だった。磐井亡き後の筑紫の君もそれに従った。

これから先は仮定の上の仮定なので、ほとんど法螺話だが、毛の君はどこかの時点で大和朝廷に臣従するようになったのかもしれない。近江国を賜り、東国の征服と開拓を命じられた可能性もある。天武の時代に最初の朝臣の一人となった上毛の一族である。桓武天皇の生母を送り出した和氏もその流れかもしれない。

いっぽうで松浦の毛の君も健在であった。隋書に見えるアメノタリシホコは毛の君の当主だったかもしれない。

そして何回かの朝鮮出征を繰り返したあと、最終的に100年後の白村江で軍事的影響力のほぼすべてを失った。というのがおおまかな筋書きではないか。