鹿児島の鶴丸公園というところで、薩摩剣法のビデオを見て感心した憶えがある。

闘鶏みたいな剣術で、長い刀で地面を叩いてホコリを巻き上げ、奇声を発する。そのままのスタイルで剣を振り回しながら突進する。

そして一撃で相手を仕留める。肉を切らせて骨を切るというスタイルだ。

これだと、映画の剣戟のように10人、20人を叩き切るという訳にはいかない。せいぜい一人二、三殺だ。そして自らも倒れる。

集団戦闘の際はこれで勘定があう。相手が二倍いてもチャラだから、全体としては勝利する。

長いこと、これが薩摩剣法かと思っていた。しかし最近わかったのは田中新兵衛流の剣道もあるのである。

これはテロ用の剣道だ。

低い姿勢で相手ににじり寄って、相手が剣を振り下ろそうとしたその瞬間。低い姿勢のまま、体を思い切り前方に投げ出すようにつきだし、同時に刀を抜きざまに横払いし、相手のスネをねらうのである。

これが居合だと抜きざまに払った後、二の太刀があってとどめを刺すのだが、薩摩剣法はあくまで一撃で終わりである。

相手がジャンプしてこの切っ先をかわし、そのまま大上段から斬りつければ脳天真っ二つだ。

あるいは気配を察した相手が半歩下がって切っ先をかわせば、相手に首を切ってくれとさし出すような姿勢となる。

いずれにしてもこれは殺人術だ。剣術ではない。この迫力がモノを言う。

戦闘に行くということは死にに行くことなのだ。殺されに行くことなのだ。うまく行ったら殺されるまでのあいだに、一人くらいは殺せるかもしれない。さらにうまくいけば、行きて帰れるかもしれない。だがしかし、それには相手を完璧に殺すことが条件だ。そして相手を完璧に殺すためには、相当の深手を覚悟しなければならないのだ。

この覚悟があれば、小錦を相手にしてでも刺し違えまでは持っていけるかもしれない。