実は「欲求」を物質的欲望に局限するのは、以前からの私の持論とも関連している。

そもそも私がこういう理論的活動に突入したのは、労働過程論からであり、日野先生の「患者が医療の主人公」論への批判がきっかけだった。

日野先生が資本論第一部に出てくる「単純な労働過程」の図式を元に、患者は労働の主体であり、対象であり、手段である、という荒唐無稽な議論を提起し、これをもって患者主体論を展開していた。

相手が有名人なだけに、それ相当の準備をしなければと、けっこう勉強した。その頃からあまり医学の勉強の方はしなくなった。いまは懐かしい思い出である。

その時の一応の結論として、あまり論争の本筋とは関係ないが、いくつかの確信を得た。

使用価値というのは事物に固着した価値であり、生産的労働というのは使用価値を内包する事物を生産する活動だということである。

交換価値を通じて価値が普遍化すると、それは非生産労働をも価値生み労働として包摂するようになる。これが形態的包摂(見なし包摂)である。

マルクスはさらにその先に実質的包摂をも主張するが、「実質」の中身があまり本質的ではなく、「社会的包摂」と呼ぶほうがいいのではないかと思う。

マルクスは初期の論文(例えば「哲学の貧困」)では、生産の意味を広くとっているが、資本論段階ではイギリスのブルジョア経済学の用法にしたがっている。

釧路で病院長をしていた時に、二宮厚美先生が来て講演した。その後の慰労会の時にチョットした論争になりかけた。二宮先生が医療労働も生産労働だというので、生産労働は物質的生産労働に限定すべきだろうと意見を述べたら、とたんに表情が変わったのでそれ以上は追究はしなかった。

マルクスは経済学批判の段階では、生産と消費が表裏一体の関係にあることを繰り返し述べている。そして消費によって欲望が増大することが社会発展の鍵だということを、ヘーゲルの言葉を使って何度も強調している。

消費の世界(生活過程)では生産の世界のミラーイメージが展開されている。消費は生産的消費ではなく最終的消費、あるいは消費的消費として扱われるが、実はそれこそが最大の生産的消費なのである。何を生産するのか? 「欲求」である。そして「生産的消費」のためのスキルなのである

しかしその立場が資本論においても貫かれているかというと疑問が残る。マルクスの資本論は古典経済学批判の書であり(もちろんそれに終わっているわけではないが)、相手の語法を用いて議論しているからである。

価値の実現問題とか、限界効用というのは、まさにマルクスの言わんとする中身であり、価値問題、その根源としての「欲求」に関する提起なのである。そしてその答えは、不完全ながら「経済学批判要綱」ですでに触れられている。

一方において、生産・消費・欲求などの概念を物質的なものに限定して禁欲的に用いること、他方において、それによって生じる境界的テーマについては、別途に新たな段階のものとして論理展開すること、この二つが求められるのではないだろうか。

それはひとつにはゲゼルシャフトリッヒな社会のシステム上の問題だろう。もう一つは生活過程に則した「欲求体系」の多様かつ普遍的な発展過程の中に位置づけられるだろう。

さらに言えば、はるかに膨大な広がりを持つ「非物資的な欲求」を見据えた発展モデルの展開であろう。

…くらいの議論をふっかけた上で、またヘラーに戻るとするか。