「欲求」概念がいつまでたってもウヤムヤなのは、「性欲」問題が絡んでいるからだろうと思う。
「欲望という名の電車」という映画があって、何度も見たが、最後まで見通した記憶はない。これがドキュメンタリーであれば、嫌な場面でも見通しただろうと思う。しかしこれはフィクションのためのフィクションであり、役者は演技のための演技だ。ただの露悪趣味にすぎない。
学生の頃、なんとかベルデという人の「完全なる結婚」という本があって、密かに回し読みした。森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」という小説の「セクス」だけに憧れて隠れ読みした。
ベルイマンがどうのこうの、パゾリーニがどのこうのとか言っていたが、所詮は露骨な性描写が見たかっただけだ。
逆に言えば、それだけ性欲に関するタブーは強力だったわけだ。その先にフロイドがある。

数年前、学校の先生に聞いたが、今どき高校生の半分はセックス経験済みだそうだ。
「実践は生徒のほうが進んでいるが、科学的知識はゼロだ」そうだ。「実践ゼロ」の教師と「科学的知識ゼロ」の生徒との対話というのはシュールな世界だ。
「欲求」なり「欲望」なりという概念に、否応なしに「性欲」がふくまれる以上、そこをどう論理的処理していくかが不可避だ。

プリミティブな欲求が「物欲」であり、行為に関する欲求は高次なものだとすれば、性欲は物欲よりも高次だということになる。しかし自然界を見てみれば、生殖本能は個体維持本能に負けず劣らずプリミティブなものと考えられる。
種の保存は「ドイツ・イデオロギー」で言われるほど、二次的なものではないのである。ということは、欲求というのは欠乏に裏付けられた生存本能のしからしむるものだけではないのである。

この動物の生命の原始形態における二重性と、その絡みを解き明かしていかなければならないであろう。すごく単純化して言えば、生命維持は受け身の反応であり、種の維持はより能動的なものであり、種の維持に関わる能動性が生命維持においても能動性を与えている、という関係があるかもしれない。