赤旗にまとまったイエメン情勢の報道(小泉特派員)が載った。

これまでイエメンといえば、旧南イエメンと北イエメンとの摩擦であり、アルカイダの拠点であり、挫折したアラブの春であり、無人機攻撃の対象であり、と断片的ながらそれなりに国際面を賑わせてきた。

今度はちょっとレベルが違う。政府が打倒され、大統領が逃げ出し、それが追い詰められているという事態だ。

しかもその主役は市民でもアルカイダでもなく、シーア派だというからびっくりだ。

一言で言えば、イエメン情勢は急展開し悪化し、「国際戦争」化しているといえる。

もともとイエメンは、「統治不能な国家」だとみなされてきた。オスマン帝国や大英帝国も悪戦苦闘した。ナセル元エジプト大統領は、1960年代のイエメン内戦で面目を失った。その後国は南北に別れ対立を続けてきた。

例によって時系列で整理する。


1986年 南イエメンで内戦となる(アデン内戦)。アリー・ナーセル前大統領派(民族派)がYSP政権(社会主義派)に対し反乱を起こすが敗退。マンスール・ハディらが北イエメンに亡命。

1990年 南北イメエンは統合を発表し、イエメン共和国が成立。北のアリー・アブドッラー・サーレハが大統領、南のアリー・サーレム・ベイド(YSP書記長)が副大統領となる。統合当時の人口は北が約900万人、南が約250万人程度。

1993年 第1回総選挙。サーレハ大統領与党が勝利。YSPは56議席で第三党に転落し、北部の部族勢力と南部のウラマー層を基盤とする改革党(イスラーハ)が第2党となる。

1993年8月 イスラーハによるYSPへの攻撃が強まる。アルベイド副大統領は職務放棄してアデンに引きこもる。

1994年5月 イエメン内戦。アデンのアルベイドが「南イエメン国」の独立を宣言するが、まもなく陥落。サーレハは南部出身で親北派のハーディーを後任副大統領に指名した。

イエメン

2004年9月 イエメン北部のシーア派武装勢力「アンサルラ」(Ansarullah)が政府軍と戦闘。以後6年間に6度闘い政府軍を跳ね返す。政府軍は指導者フシが死亡したと発表。

シーア派の中ではザイド派を呼ばれ、イランの「12イマーム派」とは異なる。元々は信仰復興運動だったが、アブドルマレク・フーシが率いるなかで、最も実力のある武装勢力の1つに変身した。

2009年11月 フシ派がサウジ領内に侵入。サウジ軍がフシを捕らえたとの報道。12月では空爆で死亡と発表。

2011年

1月 アラブの春でサレハ退陣をもとめる運動が高まりを見せる。

11月 サレハ、GCCイニシアチブを受け入れる。(ハディーへの権限移譲、挙国一致内閣、サーレハへの訴追免除など)

2011年 「アラブの春」による混乱に乗じ、フーシ派武装勢力が北部サーダ周辺の山岳地帯の支配を固める。

2012年2月 大統領選挙でハディ政権が誕生。サレハ独裁体制が終わる。ハディは「国民対話」を開始。

ハディはサレハ政権の副大統領で、さしたる国内基盤を持たず、サウジの後援のみが頼みの綱。
南部のスンニ分離独立派と北部のシーア派系「フーシ」は投票をボイコットした。

2014年

1月 包括的国民対話会議は合意文書を発表し、憲法制定と議会選挙、大統領選挙を1年以内に実施することとした。

2月 武装組織「 フシ 」が首都サヌアの北西約50キロのアムランに進出。政府軍との戦闘が始まる。

9月15日 フシがサヌア北部に進出。激しい戦闘が続く。

9.20 国連が仲介し、「全政治勢力による集中協議の末」に挙国一致内閣の樹立で合意。

9.21 フシ派部隊、首都サヌアの政府庁舎を占拠し、首相退任を迫る。政府はこれに屈服。サヌアの治安は、フーシ主導の連合部隊に置き換えられる。サレハ元大統領に忠実な軍部隊もフーシ派に協力。

2015年

1月 「アラビア半島のアルカイダ」(AQAP)を名乗るグループがパリの新聞社を襲撃する。AQAPはイエメン中部および南東部を拠点とする、南部分離派の分派とみられる。

1.22 フーシ、新憲法の内容を巡り政府と対立。大統領官邸や国営放送局を占拠する。ハディは辞意を表明。

2.06 フーシ派武装勢力が政権掌握を宣言し、議会を強制的に解散。フシを首班とする革命委員会が、暫定統治の開始を宣言。国軍はハディ派とサレハ派に分裂し動けず。

イエメン軍は、62年以来、一貫してアムラン、サナア、ダンマール出身(要するに北部のザイイディ派)の将校により支配されてきた。
サレハの私兵の如く動いてきた彼らは、ハディ政権のもとで既得権を奪われるのを恐れた。

2.21 ハーディーは辞意を撤回。クーデターを承認しないよう国際社会に求める。

3.10 サウジなどGCC5カ国が、イエメンへの空爆作戦を決定。ヨルダン、モロッコ、スーダンが戦闘機を派遣、エジプトとパキスタンが戦艦の配備を表明。イランはこれに強く反発。

3.20 サヌアでのフーシ派の集会にISISが自爆テロ。137人が死亡。

3.22 フーシ派、イエメン第3の都市タイズを制圧。ラハジ州の米軍基地の要員が撤退。

3.22 フーシ派スポークスマン、ハディ大統領がAQAPに武器を渡しており、イエメン南部がAQAPの支配下に入る恐れがあると語る。

3.25 フーシ派、アデン北方60キロのアナド空軍基地を制圧。アデンの大統領宮殿を空爆。

3.25 フーシ派がアデンを攻略。ハディ大統領はリャドに逃れる。無人機攻撃を指揮する米軍特殊部隊も退去。

3.26 GCC軍が[決意の嵐]作戦を実行。首都サヌア空港や一連の軍事施設を空爆。サウジ100機、湾岸4カ国70機、ヨルダンなどから15機が参加する大規模なもの。子供6人を含む民間人25人が死亡する。

3.26 ハディ大統領派の部隊が、南部のアナド空軍基地やアデン国際空港を奪還。サウジは地上部隊による攻撃も排除しないと述べる。

3.26 GCC5カ国が空爆の正当性を訴える共同声明。

3.26 アラブ連盟が外相会議を開催。「フーシ派への空爆はハディ大統領の要請に基づくものであり、主権に対する攻撃ではない」とし、空爆支持を表明。イラクは異論を唱え、平和的解決を主張。

3.26 イランのザリフ外相、「イエメンに対する外部からの軍事攻撃は領土保全への侵害であり、国民のさらなる流血と死をもたらす。外部からの干渉なしの緊急対話が必要だ」と語る。

3.28 アデンで終日激しい市街戦。フーシ派はアビヤン、シャブワなど南部諸州への攻撃を強める。

3.28 サウジ国防省、3日間で作戦の第1段階は目標を達成したと発表。航空機は総て破壊され、通信網も破断されたとする。

3.28 アラブ連盟首脳会議が開かれる。イエメンのハディ大統領も出席し、イランを激しく非難。空爆継続をもとめる。エジプトのシシ大統領は「アラブ合同軍」の創設を提案する。

3.30 GCC軍、北部の難民キャンプを空襲。45人が死亡(国際移住機関による)。サウジは空襲の事実を認める。


イエメンに関しては下記のページもご参照ください

2012年09月08日 

この年表は1986年までのものですが、現在のイエメンと比べる時、あまりの落差に愕然とします。まるでSFの世界です。あの英雄的プロレタリアートたちはどこに行ってしまったのでしょう。