フェルメールの「天文学者」の写真も掲載されている。初めてお目にかかる絵だ。

ちょっと気になったのか以下の記載。ティツィアーノの絵を紹介したあと、

構図の調和、髪や肌、衣服の描写は、ルネサンス芸術の雄、ラファエロに対するヴェネツィア派からの挑戦であるかのような完成度だ。

考えてみると、私はルネサンスの歴史をあまり知らないことに気づいた。

さらに子供の頃からルネッサンスと言ってきたが、最近は跳ねないでルネサンスということが分かった。

待てよ、ルネサンスはフランス語なのだそうだ。たしかにいやらしい綴りだ。でもなぜフランス語で呼ぶのだろう。本家イタリアではどう呼んでいるのだろう、と疑問が膨らむと、やはり一度勉強しておこう

ということになる。


まずウィキペディア

ルネサンス(Renaissance)は「再生」「復活」を意味するフランス語である。古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動で、14世紀にイタリアで始まり、西欧各国に広まった。

通俗的に「復興」「再生」を指す言葉として用いられている場合、ルネッサンスと表記されることが多い。

ということで、第一の疑問は解決。次がなぜフランス語かということだが、

19世紀のフランスの歴史家ミシュレが『フランス史』第7巻(1855年)に‘Renaissance’という標題を付け、初めて学問的に使用した。

続くスイスのヤーコプ・ブルクハルトによる『イタリア・ルネサンスの文化』Die Kultur der Renaissance in Italien(1860年)によって、決定的に認知されるようになった。

とされている。比較的最近のことだ。

それでイタリア人がどう呼んでいるかだが、リナシメントということになっている。ひょっとするとフランス語からの輸入かもしれない。

歴史についてはウィキペディアは詳しくない。


再生運動の提唱者 ペトラルカ

再生運動の提唱者はペトラルカ(1304年生)のようだ。

ペトラルカは古典古代が理想の時代で、中世は暗黒時代だと考えた。そして修道院の古代文献を収集し、詩作・著述を行った

1350年頃から20年間にわたり、ヨーロッパでペストが猖獗を極める。ボッカッチョが『デカメロン』を完成させる。

1400年頃 中部・北部イタリアの諸都市の中からフィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ、ジェノヴァが頭角を現す。逆に教皇ははローマ、アヴィニョン、ピサに分裂し弱体化。

東ローマ帝国からの亡命者

1453年に東ローマ帝国が滅亡すると、多数の知識人がイタリアへ亡命してきた。その書物や知識は古代文化の研究を活発化させた。

1455年頃、ヨハネス・グーテンベルクによる活版印刷の聖書刊行。

1470年頃 オスマントルコがギリシャ半島東岸に進出。ヴェネツィアはギリシャから撤退。

1470年頃 フェラーラのエステ家が興隆。フランドルからハインリヒ・イザーク、ジョスカン・デ・プレなど。多数の音楽家を招聘。

1480年 オスマントルコがイタリア南部に上陸するが、まもなく内紛のために撤退。

1482年、ミラノ公国がレオナルド・ダ・ヴィンチを招聘。ダヴィンチは99年までミラノに滞在。

フィレンツェ、ミラノの最盛期

1485年頃 ボッティチェリの「春」、「ヴィーナスの誕生」が描かれる。その後400年にわたり忘れられていたが、19世紀末にふたたび注目される。

1492年 ロレンツォ・デ・メディチが死去。フィレンツェの全盛期が終わる。

1494年 コロンブスの新大陸発見。

1498年 ヴァスコ・ダ・ガマ艦隊、インドのカリカットに到着。東方貿易を独占していたイタリア諸都市は緩やかに没落し始める。

ローマ、ベネツィアへの主役交代

1500年ころ ミケランジェロ、「ピエタ」、「ダヴィデ像」などを制作。その後ヴァチカンに移りシスティーナ礼拝堂天井画を描く。

1510年頃 ラファエロがフィレンツェからローマに移る。グループを形成して制作にあたる。

1513年、マキャベリが「君主論」を著す。

1517年 マルティン・ルターによる宗教改革が始まる。

1517年 ベネツィアのティツィアーノが「聖母被昇天」を制作。

1519年 ダ・ヴィンチが死去。

1520年 ラファエロが死去。ラファエロの死とともにヴェネツィアを除くイタリア美術は盛期ルネサンス様式からマニエリスム様式に漸次移行。

ローマ、フィレンツェの没落

1527年 神聖ローマ帝国軍の攻撃でローマが壊滅。この知らせを受けフィレンツェでも反メディチ派が蜂起し、メディチ家を追放。ルネサンスの終わり。