「大伴金村」を名乗らされた人物がいる。「日本書紀」の作者がそうしたのだ。

倭王武は上表文の年からすれば、500年前後まで生きていたと思われる。

その後は誰かが倭王朝を仕切ったはずだ。それが「金村B」だ。彼は512年に百済からの任那4県の割譲要求があり、これを承認している。

同じ頃、金村Aは当面の敵である平群一族をやっつけ、506年に皇統が絶えた後は自らが事実上の支配者となっている。

とは言っても難波朝の支配者に過ぎず、大和盆地の勢力とは並立状態ないし内戦状態にあった。

生駒の物部と組んで継体を担ぎ、河内VS大和の内戦に勝利し、大和磐余に入るのはそれから20年もたった526年のことである。

ただしこの526年はあまりあてにはならない。

あてになるのは528年の磐井の君の反乱である。日本書紀が出処だが筑紫の国風土記での裏付けもある。

何よりも「真実は細部に宿る」というか、磐井の乱が何月というレベルまで詳細に記述されていることが大きなポイントだ。

これは大和王朝の記録によるものではない。百済本紀からの転写として間違いないだろう。

百済本紀を正確とすれば、我々は倭王武の上表文から512年の任那割譲、そして528年の倭国大乱へと敷石伝いに歴史をたどることが出来る。

倭国大乱には続きがある。すなわち近江毛野の渡海と戦闘、そして対馬での敗死である。

私はさらにこれに537年の狭手彦の任那侵攻をかぶせたいと思う。537年から540年の「金村B」解任までの記述を10年遡らせることである。

そうすると、近江毛野はじつは「毛野B」であり、金村Bの息子である狭手彦のことになる。であれば、同じく金村Bの息子である磐は筑紫の君磐井その人であったとしても不思議はない。

つまりこういう関係になる。

金村Bは任那を百済に部分割譲して、新羅との対抗を図った。そして九州勢を動員して任那の確保を図った。

そのために毛野B=狭手彦と磐=筑紫の君磐井を軍事、内務の要として配置した。しかし磐井は対新羅動員を渋った。

そこで狭手彦に命じて磐井を討った。

狭手彦は磐井を討った後、倭軍を動員して任那に進出し、百済・新羅との共存を図ったが失敗し、戦闘に敗れ対馬で客死してしまった。

となると、これら一連の経過を指示し、作戦失敗の責任をとって540年に辞任したのが「大伴金村B」ということになる。

ではこの金村Bは誰なのか、どこにいたのか? ということになる。

おそらく任那にきわめて近いところにいたに違いない。ひょっとすると任那にいた可能性もある。ただ磐井の反乱を鎮圧するのに任那にいたんではちょっと遠すぎる。

ということでは、壱岐から最も近いところ、唐津か呼子、つまり松浦ではないかと思う。そして彼こそが倭王武の衣鉢を継ぐ倭・任那王朝の王ではなかったかと考える。そして彼の退陣により九州王朝は求心力を失って行ったのではないかと考える。