アニュエル・ブンダヴォエ(Agnelle Bundervoet)

Born: 1922

フランスのピアニスト。フランス中部 Puy de Dome, Ambert で生まれる。

父はベルギー系。軍人。

4歳の時、母についてピアノを学び始めた。7才で Conservatoire National de Marseilles に入り、3年後にGrand Prix を獲得した。

母は特別教育の必要を感じパリの偉大な教師Lazare-Levy に依頼した。10才のAgnelleは、直ちにパリ・コンセルバトワールの音楽理論クラスに入ることを許された。同時に、より高いピアノ・クラスに入るため、レヴィから無料の個人的な授業を受けることとなった。

彼女は13歳でパリ・コンセルバトワールのピアノ・クラスに入学を許された。しかしレヴィのクラスに空きはなかった。彼女は1年待つことにした。Marguerite Long が自分のクラスに入るよう勧めたが、彼女は断った。

彼女は、1936年についにリーヴィのクラスに入った。

彼女は後で思い出す。「私は彼の演奏を見ながら、自分自身のテクニックを磨いた。彼は技術的な問題に興味がなかったから。彼の主要な関心は音楽だった」

彼女はレヴィの助手 Lelia Gousseau とうまく行かなかったが、素晴らしい生徒であった。

1940年にヴィシー政府はレヴィをコンセルバトワールから解雇した。彼女はレヴィの助手 Madame Giraud-Latarse のもとで研鑽を続けた。

1942年6月に、彼女は Premier Prix を獲得した。彼女の最初のパリ・リサイタルのために、レヴィは Themes et Variationsを捧げた。同じリサイタルで彼女はJacques de la Presle とMarc Pincherle の曲も初演した。

批評家は驚いた。「名声高いアーティストだけが持つトップクラスの国際的なトーンに耳を疑うだろう。占領下でユダヤ人の作曲家の仕事を演奏するとは、すごい勇気だ」

戦争の最後の年は、とりわけBundervoetの家族にとって悲劇的だった。

彼女が1944年6月に結婚した直後、彼女の父は死んだ。捕虜としてドイツで長い監禁され健康を害し、回復できなかった。兄アンリ(彼もまた、立派な音楽家だった)の乗った飛行機は、イギリス海峡の上で消息を絶った。

戦争が終わった。彼女は1948年まで勉学を続けた。コンセルバトワールでの長い時間は、ゆたかで多彩な指導を受けるためだった。和声法、対位法、ピアノ、そしてMaurice Hewitt の室内楽の授業を受けた。この時の同僚にSamson Francois がいた。

また彼女はMarcel Dupreから個人教授を受けた。オルガンだけではなく歌のレッスンも受けた(彼女は coloratura だった)。18歳の時、彼女は聖歌隊指揮者となりガブリエル・フォーレのレクイエムをリハーサルした。

これらの幅広い音楽の基礎は、彼女のスコアに対する深い理解の根源となっている。また古典的なロマンチックなレパートリーと同じように現代音楽を演奏できる根源となっている。

彼女は分析的精神、全体的な構造の把握、燃え立つ表現力、そしてオーケストラのレベルを超越するようなピアノ・テクニックが際立っている。

コンセルバトワールを去る頃までに、彼女は6つのPrix Premierを獲得した。今や彼女は結婚し子供をもうけていた。彼女は生計を立てて、経歴に乗り出す時間であると決めた。

それは、50年代前半を通してすみやかに展開された。

彼女は、Elsa Barraine のPiano Concerto 初演者に選ばれた。それはRoland-Manuelが主催する1954年の国際音楽祭であった。共演は Manuel Rosenthal 指揮のパリ音楽院管弦楽団だった。

Barraineがいまのように高い評価を受ける前であったが、彼女は賞賛され、とくに指揮者Roger Desormiere から注目された。この重要なイベントは、フランスでAgnelleを最高のピアニストのうちの1人として確立した。

作曲家トーマス・スタッブズも、彼女にはっきりした借りがある。彼のピアノとトランペットのための小協奏曲、‘Danses a Travers les Ages’の初演を彼女は熱心にプロモートした。

J.S.バッハから最も難しい現代の仕事まで、彼女には同じように華麗に演奏する能力があった。それは批評家の賞賛だけでなく Yvonne Lefebure のような高名なピアニストの賞賛も勝ち得た。

彼女はPaul Paray, Eugene Bigot, Pierre-Michel Le Conte, Charles Bruckらと共演している。

すべてのコンサートが勝利であった。

あるコンサートの後、今まで悪口しか言ったことのないある批評家が彼女については口をつぐんだ。そして彼女との会見をもとめた。彼は自身をDucretet-Thomson の責任者と紹介した後、深い賞賛の念を表した。彼女は尋ねた。「それで、どうして私のことを記事にしないのですか?」

Ducretet-Thomson のカタログに不足していたという単純な理由のために、バッハ・リサイタルがレコード発売された。

彼女は自ら曲を選択した。Bach-Busoni transcription of Wachet Auf、Chacconeと2つのToccatasとFuguesが選ばれた。

異例なことに、そして正当なことに、初回レコードで彼女は‘Grand Prix du Disqueを与えられた。彼女の演奏は特別な音楽の成熟を示していた。しかしその後、彼女はDucretet-Thomsonのためにレコーディングに招かれることはなかった。

1950年代半ばから、彼女はリウマチを病み始めた。それは彼女により短い曲の演奏を強いた。あるいは超有名曲に限られた。

更なる妨げは1956年に来た。彼女は夫と離婚して、3人の子供たちを養育しなければならなかった。結果として、彼女は彼女の時間のより多くを教育に捧げることに決めた。

Monique Haasなどをふくむ100人以上の申込者という難関を突破して、Jeanne-Marie Darre の審問を経て、彼女はうまくベルサイユの国立音楽院に入ることができた。そこで、彼女は次の30年の間ピアノを教え続けた。

皮肉にも彼女がコンサート・プラットホームから遠ざかることによって、より多くの人々が彼女の演奏を聞けるようになった。

彼女は、ラジオ放送ならプログラムの間に休止をとることができることが分かった。そして録音なら、長い曲の楽章のあいだを休めることも分かった。ラジオは、消耗または苦痛なしで彼女により偉大な聴衆を与えた。

さらに彼女は融通性の範囲が広かった。そして、それは彼女のより多くの専門家仲間の多くより有利だった。バッハ、ベートーベン、ブラームス、ラヴェル、ドビュッシー、ショスタコービッチの作品に同じ確実な信念と強度をもつピアニストはいなかった。

1958年から1960年にかけて、彼女はフランス・デッカのために3枚のLPを製作した。

1枚目はブラームス・リサイタル、彼女はVariations on a Theme by Handel に力を集中した。それはピアニストがカンニングをすることができない真実のエベレストだ。

彼女の演奏は強力で全ての障害を克服する。創意をもって燃え立っていて、通常でないフレーズが浮かび上がり、低音のラインも細部までくっきりと表現されている。

フランスの楽壇で、ブラームスの理解において彼女に比肩しうるのは Yves Nat だけである。

2枚目は濃い、暗いロバート・シューマン・リサイタルである。 Fantasiestucke の苦しみの詩を、彼女は情熱と厳しさへの想像から始める。そこにセンチメンタリズムの跡は見られない。Toccataの演奏は、機械的な運動を越えて紙ランタンの列のように火がともされる。

このLPにはIntermezzi op. 4の世界初録音もふくまれる。彼女が気取らない開拓者であることがふたたび証明される。

3枚目のデッカ録音はフランツ・リスト・リサイタルであった。Yvonne Lefebure に続いて再び1つの驚異があらわれた。どこから、そのような小さい女性はそのような強さを引き出すことができるか?

我々は体のバランスが重要であるということを知っている。そして、肩の活発な役割が重要であることも知っている。彼女はもう一つの秘密を持っていた。彼女が全ての学生に推薦するスポーツはピンポンである。

信じられないことに、これらは今日までのところ、彼女の最後のレコードとなってしまった。

1950年代後期に、彼女は生涯の愛人Maurice Braunと出会った。彼は大戦中の偉大なるレジスタンスの英雄であり、有名なエジプト学者である。

一緒に、彼らは国際的な旅行の喜びを共有した、そして、Agnelleはエジプトの美しさを発見した。

60年代と70代を通して彼女はベルサイユ・コンセルバトワールで教え続けた。そして、彼女の学生すべてに捧げられた。

彼女はまた、ピアノと室内アンサンブルのために創作した。メロディーを聞き分ける素晴らしい力を表示した。それは時に彼女の最愛のガブリエル・フォーレの影響を裏切ることがあった。

事実、彼女が道徳上で宗教の信念をたった一つ選ぶなら、それはフォーレのレクイエムだろう。

さらに非常に活発に、20世紀で最も偉大なフランス人ピアニストの一人である彼女は、庭造り、個人的な若干の授業と孫の相手に費やしている。


http://www.bach-cantatas.com/Bio/Bundervoet-Agnelle.htm

より訳出したものです。

Source: Coup d'Archet Website (© Jean-Marc Harari/Glenn Armstrong 2003)
Contributed by
Teddy Kaufman (May 2007)

もう12年も前のものなので、もう亡くなっているかもしれません。

元々がフランス語で書かれたもののようで、ちょっとおかしな英語です。(もちろん最大の問題は私の英語力の低さにありますが…)