壬申の乱に関する重大な訂正

1.天武こそ天智の正統な継承者

672年 大海人皇子が挙兵(壬申の乱)。近江朝廷軍は惨敗し崩壊。政治・軍事の時代の終焉。 

大和王朝の世界史への登場(7世紀の日本)年表で、上記のごとく書きましたが、その後いろいろ調べると、事実は逆のようです。

時代が変化したのは、朝鮮半島をめぐる事態が変化したのが主要な理由で、天智天皇(中大兄皇子)と天武(大海人皇子)とのあいだには、少なくとも外交路線をめぐる断裂はなく、むしろ同じ路線を続けたことに意義があるように思えます。

もともと二人は乙巳(イッシ)の変を成し遂げた同志です。大化の改新というのは645年に一気に仕上げられたのではなく、その後671年に天智天皇がなくなるまでに進められた一連の改革なのです。それらの改革を推進したのはこの二人なのです。

兄弟で改革を進めるのはよくあることで、たちどころにケネディ兄弟、カストロ兄弟などがたちどころに挙げられます。

ただ天智天皇は25年も政権のトップにいたわけですから、当然天智プロパー集団が形成されていきます。ここで大海人皇子が突っ張ると、政権内部には「世代交代論」とかいろいろ支障が出てくるわけで、とりあえず一度引いたのだろうと思います。

これが平時であれば、それでめでたしめでたしということになったのでしょうが、世の中そうは行きません。

2.対唐・対半島路線の継承

中国から皇帝の特使が来て新羅参戦を迫る中、新政権がそれに対応できないと、大海人皇子政権待望論が出てくるのは必定です。

唐の皇帝特使が近江朝から何らかの言質をとって帰途についたのが5月で、大海人が兵を起こしたのが6月です。「何らかの言質」の内容は明らかにされていません。

近江政権がどういう対応をとったのかは不明ですが、朝廷内の百済マフィアは盛んに主戦論を煽ったのではないでしょうか。

壬申の乱と天武の即位は、天智天皇路線の否定ではなく、むしろ乙巳の変とその後の改革路線の再確認と踏襲ではなかったのでしょうか。

それは、外交路線で言えば「新羅と敵対する路線はとりません」ということでしょう。もっとも賢明な選択です。

もちろん唐とことを構えるつもりはないが、唐とつるんで新羅をやっつけるつもりはない。なぜなら新羅がやられれば、その次は日本だからです。

3.親百済派の抑え

内部的には新羅との対決を望む旧百済勢力との対応が一番の問題だったでしょう。当時の政権内部には多くの百済人亡命者がいたでしょうし、北九州には任那復活を目指す勢力も屯していたでしょう。

これを乗り切り、国家的決断するには大海人皇子しかいないという状況があったのではないか。結局のところ、彼の判断は「百済・任那マフィア切り」ということではなかったのかと思います。

付け加えておきますと、国家的危機においては外交というのは戦略・軍略と同一化します。

大化の改新は土地制度に焦点を合わせて論じられますが、それは富国強兵策であり、朝廷軍の強化のための改革なのだということを強調しなければなりません。土地の管理リストをつくるということは、徴兵対象者のリストをつくるのと同じです。

大化の改新にかかわった大海人皇子が、その徴兵リストを確保していたとすれば、戦いの帰趨は最初から明らかではなかったでしょうか。

7世紀の年表(3月5日 改訂)をご参照ください