元銀行マン、つまりは老健の事務局長なのだが、と話していると、ある種のペシミズムとニヒリズムが根底にあることがはっきりする。これはなかなか打ち破るのが難しい。

「異次元の金融緩和」でジャブジャブにして、そのカネで国債を買いまくり、年金機構に国債から株式証券へのシフトを促す。これによって株価を維持して企業と金融が安定すれば、その内に景気の循環局面が好転するだろう、という筋書きだが、その先に未来はない。

それどころか、その先には奈落の底が待ち構えている、といえば反論はしない。「しかしいまの日本にはそれしかないのだ」ということになる。

通貨をどんどん発行すれば、インフレが現象するはずだが、企業がすべて内部留保に回しているから物価騰貴としては出てこない。しかし国民の総資産に対して通貨量が爆発的に増えているわけだから,庶民の所得は間違いなく減価している。

それが需要の減退から経済の縮小再生産へと至ることは自明であるが、これも「しかしいまの日本にはそれしかないのだ」ということになる。

その先に窮乏化革命論をくっつければ話は簡単なのだが、さらにその先には未来はない。

やはり「計画経済」とか「経済の社会化」という議論を積み上げていかないと本当の前進的議論はできないのではないかと思う。

ただ「計画経済」という言葉にはあまりにもスターリニズムの汚濁が染み付いてしまっている。

だから旺盛にスターリン批判を転回している不破さんも、なかなかそこには踏み込まない。

だから「計画経済か市場経済か」という不毛の議論が、ソ連崩壊後の一世を風靡し、民医連の幹部さえとくとくと語り、はては「計画でも市場でもない第三の道」として非営利・共同の路線が堂々と打ち出されたのである。


私は、「計画経済」とか「経済の社会化」というのは、究極的には、資本主義という経済システムを飼い慣らすこと、家畜化することを目指す議論なのだろうと思う。

そしてそのことによって「ジャングルの掟」から抜け出すことを目指しているのだと思う。

もちろんそのすべてを家畜化するのは不可能だろうし、経済はそのような試みに手荒く立ち向かってくるだろうと思う。

ただ人間は自然に翻弄されるだけの状態から始まって、ある程度自然をコントロールし、上手に利用する方法を身につけたのだから、経済という社会現象もやがてはコントロールできるようになるに違いないと思う。

それが、段階として、あるいはアプローチの方法してさまざまな形態をとるにせよ、なんとかこの荒馬を飼いならして乗りこなすという目的に沿った努力だろうと思う。

例えば投機資本に対する規制だったり、租税回避への規制だったりするし、より積極的には生産・事業の計画化だったりするわけだ。

そして根本的にはユニバーサルな経済秩序の形成に行き着く。それは強力な金融的裏付けを持つ、決済機能にとどまらない、国際通貨の創設がひとつのメルクマールとなるのではないか。

所有形態の問題はたしかに重要だが、グローバルな観点から見れば、それは決してメインではない。生産と分配を社会的な合意の下に行うようになれば、生産と分配に関する組織は自ずから社会化され、解決していくだろう。

共産主義は、産を共にするという意味ではなく、共に産み出すという意味だ。

ただし移行期(全体の流れに逆らおうとするものとの闘争の時期)においては、それは一国内の個別の形態においては、激しい論争のもとに置かれるだろう。


ペシミストという点ではピケティも同じだ。

彼はマルクスの貧困化理論を過去200年の銀行統計を使って立証した。そして世界大戦後の貧富の差の縮小を一過性のものと見ている。そしてそれが可能となった原因をさまざまに検索している。

だが果たしてそうであろうか。それは純粋に経済的な事象であったのか。

私は、戦後のITCを中核的概念とする革新的システムこそが現実に世界を変えたし、経済成長とともに格差の縮小をもたらすという“奇跡”をもたらしたのだと思う。

それは一方におけるアメリカ帝国主義の横暴、一方におけるスターリニズムの跋扈という政治的事情により歪められ、大量生産・大量消費という奇形的成長により挫折した。

しかしそれに変わって登場した新自由主義は、わずか40年足らずでその無能ぶりを暴露している。

一過性なのは戦後体制ではなく、新自由主義なのではないか。


2011/10/17  通貨問題は貿易問題だ バンコールと国際貿易機関ITO

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