飛鳥寺の6世紀末の建立を事実として承認するかどうかは、大和朝廷の成立史を考える上で決定的な鍵となっている。

金石文、ないしそれに匹敵するものとして、吉田「飛鳥の都」では以下の3つが上げられている。

1.塔露盤銘: 露盤銘というのがどんなものかしらないが、元は金石文だ。しかしそれはすでに喪失しており、「元興寺縁起」にその中身が書かれている。

二つ問題があって、ひとつは「元興寺縁起」が日本書紀よりも20年ほど後に書かれていて、日本書紀を参考にした可能性があることだ。そしてもうひとつは文を正確に写しとっているかどうかだ。飛鳥寺より100年以上後に立てられた起法寺の露盤名ではそこが問題となっている。

とはいえ、露盤銘の文章が「おおむね創時建に述作されたものである」ことについては確認されているようだ。つまり日本書紀は露盤銘を参照して書かれた可能性が強いということになる。

2.丈六釈迦仏光背銘: これは寺の建築より後、仏像が安置された時にそこに書かれたもののようだ。これも現物は存在せず、「元興寺縁起」にその中身が書かれている。

欽明天皇の時代に百済王が仏法を薦めた。天皇は蘇我稲目に命じ、法を修行させた。この後仏法が大倭に始建される。

用明天皇は魔眼を捐棄(エンキ)して、佛法を紹興した。推古天皇と聖徳太子、蘇我馬子がこれを推進した。

飛鳥寺の建設を知った高句麗の大興王は黄金を寄付した。大隨國使の裴世清がこれを持参し、来訪した。

これについては、露盤銘に比べると確実性は低い。しかし「縁起」が日本書紀の20年後とすれば、そこに引用された「光背銘」は日本書紀よりは古いと考えるのが順当と思える。

3.観勒の名が記された木簡

飛鳥寺遺跡から大量の木簡が発見され、その中に観勒の名が記された木簡があった。観勒は日本書紀に登場する人物で、百済から602年に来訪し、暦法・天文などを教えたという。


これらの資料から総合すると、600年前後に飛鳥寺が建てられたことは間違いない事実と思う。そしてこの件に関する日本書紀の叙述も間違いないものだと思う。

ここが、時空を過去に広げていくための揺るぎない支点となる。

我々は少なくとも欽明天皇までは大和王朝に実在した人物として遡っても良いのではないか。

彼らは任那滅亡と同時代を生きているはずだが、まったく無関係だ。彼らは文字を持たなかった。外国との接点も全くない(九州王朝との接点はあっただろうが)。そこに仏教をその一部とする外国文明が初めて飛び込んでくる。

それはなぜだろうか。九州王朝がなくなってしまったからだ。だから百済は大和王朝と接触せざるを得なくなったのだ。

かつて九州王朝があった場所に、今あるのは、大和王朝の出先機関だけ、ということになれば他に選択肢はないだろう。どうしてそんなことになってしまったのだろう。それは分からない。