魏志倭人伝についてはすでに語り尽くされた感があり、それが九州王朝を指すこともほぼ確定された認識となりつつある。

しかしそれが倭の五王を最後にぷっつりと切れ、「日出処の天子」まで消息がわからない。その間にあったのがはっきりしているのは筑紫の君磐井の反乱 と任那の滅亡であるが、前者については日付が特定できないし、磐井が誰と闘ったのかも不明である。後者においては新羅に抵抗したのは誰だったのかが分から ない。

九州と朝鮮半島南部の動乱とは別に、近畿では大和王朝が着実に力をつけていった。そして「日出処」が堂々と名乗りを上げるまでに、九州王朝は滅亡している。

そして大和王朝の求めに応じて裴世清が来訪した。このとき大和王朝はくっきりとその姿を表すのである。

と、ここまでが私の認識だった。

しかし、その後の勉強で、実は裴世清来訪から日本書紀作成までの100年も、決して確定されていないことがわかった。

そこで吉川貴司「飛鳥の都」(岩波新書)に沿って、勉強してみることとする。当然日本書紀の記述が中心となるのだろうが、できるだけ日本書紀には眼をつぶりながら、中国・朝鮮側の記述を追ってみたい。

いわば日本書紀を無視した日本史年表である。(なおウィキペディアとは相当の異同がある)

中国側文書で確認される「大和王朝の世界史への登場」は裴世清の紀行文であるが、それ以前に対外関係として確認され、事物の裏付けのある事実がある。それが飛鳥寺の建立である。

したがって、ここを起点にある程度遡行することは可能である。物部政権から蘇我政権への移行をもって、日本を対外的に代表する権力としての大和王朝の確立と見て良いのではないか。

時代区分としては、むしろアジアの動きをメルクマールにしたほうが良いと思う。

おおまかに言えばプレ随・唐時代、高句麗vs隋時代、高句麗・百済vs唐・新羅時代、新羅vs唐時代である。これを一言で言えば“朝鮮をめぐる世界戦争の時代”といえよう。この戦争に、新参者の大和王朝は半ば当事者として関わり、翻弄された。

それと並行して、もっと長いスパンで中国文明の積極的受容が一貫した流れとしてあった。結果として2つのことが確認されたのではないか。一つは外国の紛争にはかかわるな、ということであり、もうひとつは中国の文化を取り入れつつ、国力を強化することだ。場合によっては中国と一戦を交えるほどに…