7世紀の年表(3月5日 改訂)

まず年表を作ってみて、ネット情報で増補している内に、深刻な疑問にぶつかりました。

白村江の戦いは、本当に日本にとって決定的な戦争だったのか という疑問です。

たしかに朝鮮半島にとっては決定的な転機となっていますが、それはすでに661年の百済の滅亡によって基本的には済んでいる話ではないでしょうか。

その残党が散発的に抵抗を続けていたが、それも最終的に白村江で根絶やしにされたということではないでしょうか。

もちろん白村江の戦いに日本軍が参加したことは事実でしょうが、どれだけ本気だったかは疑問です。

一般的に考えて、すでに百済は滅亡しているわけで、そこに中国と正面対決をしてまで首を突っ込むのは、誰が考えても不適切です。

もう一つは日本軍の軍勢が誇大宣伝ではないでしょうか。日本書紀に書いてある通りの軍勢が上陸していれば、もう少し戦況に変化があってしかるべきです。三国史記や唐書を見る限り、そのような気配は感じられません。

このような誇大宣伝、ないし虚偽の大軍の記載は、6世紀の半ば頃から何度となく日本書紀に現れてきます。しかしそれを裏付けるような朝鮮側文書の記載は認められません。

もう一つ、将軍連の中に上毛の君とか筑紫の君とかが出てきますが、このような位階が660年にまだ存在していたのでしょうか。

ということで、怪しげな記載は全部削除することにしました。使いを送ったことについては残し、使いを受け入れたことについては削除します。(向こう側に対応事実があれば残す)



Wはウィキペディアからの引用


プレ随・唐時代

538年 百済、泗沘へ遷都。百済は475年に高句麗の攻撃を受け熊津へ遷都。これが二度目の遷都となる。

562年 新羅、大伽耶を滅ぼし、伽耶全域を支配下に収める。また漢江流域にも進出し、中国大陸と直接の外交関係を持つ。

570年 新羅の進出を警戒した高句麗、背後勢力の倭に使者を送る。Wでは、「北陸に漂流した高句麗人が国書を持参していた。これにより国交が開かれた」とある。

581年 楊堅、隋を建国。文帝を名乗る。

587年 蘇我馬子、河内の物部守屋を滅ぼす。継体天皇(530年前後)以来の物部政権が終わり、蘇我政権に移行。翌年に飛鳥寺の建設に着手(完成は596年)

588年 馬子は善信尼らを百済へ留学させる。

高句麗vs隋時代

589年 隋が中国を統一。高句麗と直接対決する。

592年 w馬子、反蘇我の動きを見せた崇峻天皇を暗殺。

595年 高句麗人の慧慈、飛鳥寺建設のため派遣される。20年にわたり聖徳太子のもとで働いたあと帰国。

598年 隋、高句麗に1回目の侵攻。以後4回にわたり侵攻作戦を展開するがすべて失敗。

600年 初の遣隋使を派遣。ただし送ったのは倭のアマノタリシホコであり、大和王朝側には記録なし。

604年 隋の第二代皇帝に煬帝が即位。

607年 第2回目の遣隋使。小野妹子が煬帝に国書を届ける。「日出ずる処の天子」がアマノタリシホコである根拠はない。

607年 煬帝、長城地帯を巡幸し、高句麗に圧力を加える。

608年 隋の裴世清が来航。

608年 第3回の遣隋使。裴世清とともに隋に向かう。

610年 高句麗人の曇徴が来航。

612年 隋の煬帝、最大規模の高句麗親征を行うも失敗。200万人はさすがに大げさだろう。

613年 煬帝、二度目の高句麗攻撃。隋国内での反乱発生により断念。

614年 第4回目の遣隋使が派遣される。

618年 中国全土に農民反乱が発生。煬帝が殺害され隋は滅亡。唐の高祖が即位。

623年 新羅の使節が訪問し、唐の成立を告げる。新羅使節とともに「大唐学問者僧」が帰国。おそらく614年派遣組であろうと言われる。

この後20年ほどのあいだに唐留学組が続々と帰国し、最新文化を広める。おそらく大和王朝は空前の中国ブームで沸き返ったことであろう。これらの留学生は多くが唐-新羅ルートで帰国している。彼らにとって新羅が敵であろうはずがない。

624年 唐の高祖、高句麗と和睦。高句麗王を遼東郡王、百済王を帯方郡王、新羅王を楽浪郡王に冊封する。

626年 唐の太宗が即位する。中国全土が統一される。

627年 W百済が新羅を攻撃。新羅は唐に援助を求める。この時は援助を得られず。

630年 第1回目の遣唐使が派遣される。太宗は高表仁を返使として派遣。新羅使も倭国まで随行させる。

630年 唐が東突厥を滅ぼす。東突厥と連携していた高句麗は、唐の侵攻に備え長城の建設を開始。

東西突厥帝国

7世紀初めの東西突厥可汗国(ウィキペディアより)

632年 唐使の高表仁、難波津に到着。大和王朝の無礼に怒り、天皇と会わないまま帰国。(旧唐書)

高句麗・百済vs唐・新羅時代

642年 高句麗で政変。対唐主戦派の泉蓋蘇文が王位を簒奪する。百済と高句麗が攻守同盟を結ぶ。

642年 百済が新羅に侵攻、新羅の四十余城を攻略。旧伽耶地域を占領。新羅は高句麗に支援を求めるが拒否される。

642年 大和王朝が越の国の蝦夷を攻撃。数千人を支配下に置く。47年には新潟県北部までを支配。

643年 蘇我入鹿が斑鳩宮を急襲。上宮王家(聖徳太子一族)が滅亡。中大兄、中臣鎌足らはこれに深い危機感を抱く。

643年 百済、皇子扶余豊璋を廃太子し、倭へ人質として送る。

643年 唐依存派が中枢を握った新羅は、唐に援軍を乞う。
645年 乙巳の変。蘇我政権が崩壊。新政権は難波を王都とし、儒教的合理主義のもとに中央集権体制を強化。

645年 唐が高句麗に対して総攻撃を開始。Wによれば百済侵攻をも画策しており、このため百済背後の新羅への工作を開始。

648年 唐が新羅支援を約定する。新羅は官制を唐に合わせ変更、独自の年号を廃し、唐の属国となる。

649年 唐の太宗、高句麗制圧を果たせぬまま死去。
649年 新羅の金春秋、日本訪問を終え帰国。これに代わって金多遂が派遣される。

651年 西突厥が唐の支配を打ち破り再興される。

651年 高宗は、百済と高句麗の安堵と引き換えに新羅との和平を命令する。
651年 左大臣巨勢徳陀、中大兄皇子に新羅征討を進言するも、採用されなかった。
巨勢徳陀は元蘇我は重鎮だったが乙巳の変にあたりいち早く寝返り、論功行賞で左大臣にのぼり詰めた。いかにも居そうな政治家。新羅の使者の訪問を受け、新羅が唐に臣従して制度も唐制に改めたと知って追い返したという。
652年 高句麗と百済が新羅に侵攻。唐は新羅支援のため遼東郡に出兵

653年 第2回の遣唐使派遣。ここまで23年の空白あり、相当情勢ボケしていたと思われる。

653年 中大兄皇子、孝謙天皇を難波に残し、飛鳥に戻る。

654年 第3次遣唐使を派遣.「新羅の道を取り、萊州に泊まり、遂に京に着き、天子に拝謁」した。唐の高宗は遣唐使に対し「新羅危急の際には救援するよう」命じたとされる。(日本書紀)。

654年 W大旱魃による飢饉が朝鮮半島南部を襲う。百済義慈王は飢饉対策をとらず、国民の不満を呼んだとされる。
654年 新羅の金春秋、武烈王として即位する。

655年1月 高句麗・靺鞨・百済の連合軍(麗済同盟)が新羅北部に侵入。33城が奪われる。唐は盟約に基づき、営州都督の程名振と右衛中太将の蘇定方らに高句麗攻撃を司令。大和王朝は動かず。
656年3月 百済の義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死。

657年 唐が西突厥を破る。
657年 654年に続き大飢饉。草木はほぼなくなったと伝わる。

658年 唐が高句麗へ3回めの派兵。戦線が膠着したため、唐は百済への迂回攻撃に戦略を変更。

659年 第4次遣唐使を派遣。この遣唐使は「来年、海東を征伐する」計画を秘匿するため、唐で監禁される。
659年 百済が新羅領内に侵入。新羅は唐に出兵を求める。

660年 唐と新羅の攻守同盟が成立。

660年3月 唐が百済討伐の出兵を行なう。蘇定方を司令官とし、副司令官に武烈王の息子の金仁問がつく。唐軍は水陸合わせ13万、新羅も5万を動員。
7月 百済はいったん滅亡。義慈王らは唐に連行される。佐平の鬼室福信らが南部で抵抗を続ける。
大唐平百済国碑が残されている。「外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ、刑罰の及ぶところただ忠良にあり」

9月 鬼室の使が大和朝廷に百済救援を要請。大和王朝に人質となっていた百済王子の扶余豊、百済軍の指揮をとるため帰国

660年10月 長安に幽閉されていた遣唐使が解放される。

661年3月 唐の蘇定方軍が平壤の包囲戦を開始。半年後に一旦撤退。新羅の武烈王も作戦に参加するが陣中にて病没。
9月 扶余豊と福信が率いる百済軍、唐軍留守部隊を包囲するが、唐の援軍の到着を見て後退。
661年 斉明天皇、自ら筑紫まで赴くが現地で崩御。中大兄は朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命し軍勢を三半に分け朝鮮半島に派遣。

662年 戦闘は二正面で展開される。北部では唐の派遣軍が高句麗に大敗。南部では唐・新羅連合軍が百済を圧倒。大和王朝は大軍を送ったことになっているが、ほとんど戦況に変化をもたらしておらず、誇大表記の可能性が高い。

663年 百済王権内部にて内紛。大和軍を背景とする扶余豊が現地軍トップの鬼室福信を殺害。

663年8月 百済最後の拠点である周留城が包囲される。救援に向かった倭の水軍、唐の水軍に大敗を喫する(白村江の戦い)

664年 百済駐留の唐軍、大和王朝に使節を送り、「将軍牒書」を示す。大和王朝は回答を拒否(内容不明)

664年 対馬・壱岐・北九州に防人を配備。大宰府に山城を造営。

665年 高宗の勅使が来訪し大和王朝と交渉。戦後処理に当たる。唐使を送るため送唐客使(実質遣唐使)が派遣される。

665年 新羅と百済残党が和親。
665年 唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日。3ヶ月間にわたり滞在し交渉を行う。帰国にあたり、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。
665年 高句麗軍の名将泉蓋蘇文が死亡、高句麗王朝内部で紛争が発生。

667年 中大兄皇子、近江大津宮に遷都する。
667年 唐の百済鎮将劉仁願、日本側の捕虜を筑紫都督府に送還。

667年 唐と新羅の連合軍が、高句麗に攻撃を加える。

668年10月 高句麗が滅亡。唐と新羅が全土を掌握。高句麗へ亡命していた百済の豊璋王も、捕らえられ幽閉された。旧百済勢力はその後も散発的な抵抗を続ける。

668年 中大兄皇子が天皇に即位。天智天皇を名乗る。
669年 天智天皇、河内鯨らを正式な遣唐使として派遣。唐との関係の正常化を図る。
新羅vs唐時代

669年 新羅の使節が来朝し、高句麗滅亡を伝える。

669年 唐が倭国を討伐するとの風聞が広まる(遠征水軍の整備が始まったと言われる)。
669年 天智天皇は唐との国交正常化を図り、第6次遣唐使を派遣する。「日本は使を遣わし、高麗を平定したことを賀した」(新唐書日本伝)

670年 高句麗の遺民が反乱。唐の全面支配を警戒する新羅はこれを支援、唐との関係が悪化。

670年 吐蕃が唐の西方に侵攻。唐の百済駐留軍は吐蕃に対抗するため西域に移動。

670年 新羅は唐軍不在の機を受け、百済各地の残党を一掃し、朝鮮半島南部を全面支配。唐は対応できず。

671年 唐水軍がふたたび旧百済領の支配を目指し侵攻。新羅軍はこれを撃退。これにより唐軍の日本侵攻の計画はなくなる。

671年 唐の百済鎮将が大和王朝に使節を送る。対新羅の共同作戦を提起したものと思われる。旧百済勢力、新羅もこれと競うように使節を送る。

671年12月 天智天皇が死去。大友皇子が後継者に指名される。天智天皇の弟の大海人皇子は出家し吉野に隠退。

672年初め 唐皇帝の使者、郭務棕が47隻2千人の従卒を伴い大和王朝を訪問。対新羅戦への参加を求める。

672年6月 大海人皇子が挙兵(壬申の乱)。近江朝廷軍は惨敗し崩壊。文武天皇は親新羅にシフトするが、戦闘へは参加せず。

672年 唐が新羅侵攻作戦を開始。遼東方面から侵攻する。新羅は当初苦戦を強いられる。

673年 大海人皇子が天武天皇として即位。在位中に遣唐使は一切行わなかった。これに代わり新羅との使節の往来が頻繁に行われる。

676年 新羅、唐軍を朝鮮半島から駆逐。唐は平壌を放棄。安東都護府を遼陽へ移す。

676年 唐は吐蕃との対応に追われ、新羅侵攻を断念する。新羅の一人勝ちの形で朝鮮半島をめぐる戦いが決着する。

679年 東突厥が復興。唐勢力を内蒙古から駆逐する。唐は吐蕃、突厥との対応に追われる。

684年 新羅が高句麗残党を掃討し「高句麗国」を吸収する。
686年 新羅、遣唐使を派遣し臣従関係を復活。

694年 W渤海が建国される。高句麗の残党によるものとされる。当初は唐と対立していたが、後に従う。
702年 文武天皇によって遣唐使が再開される。粟田真人らが派遣される。