構造主義を年表化しようとするのは、まさに反構造主義的な作業でしょう。


1906年 ソシュール、ジュネーヴでの講義を開始(講義録の発刊は16年)。ソシュールの言語学はすでに論じている。一言、シニフィアンsignifiant(聴覚イメージ)とシニフィエsignifie(概念)は、漢字のつくりと偏のことである。偏が意味で、作りが音である。たいしたものではない。

1935年 ブルバキ・グループ、「公理を満たす数多くのモデルの全体により、その公理が提示 する構造を把握する」ことを提起。3つの母構造(代数的構造、順序的構造、位相的により全数学モジュールを構造(システム)に従属させようとする。(…と書いては見たが、さっぱりわからない)

1949年 クロード・レヴィ=ストロース、「親族の基本構造」を発表。婚姻体系の「構造」を説明する。自覚的な意識や主体性に、いわば、無意識の秩序が先行していることを示す。ブルバキの方法論を応用したことから、方法論的特徴(かっこいい)が注目される。

ピアジェ、発達心理学に抽象代数学を持ち込む。構造主義者の一人とされる。

1955年頃 ラカン、精神分析の手法として脱人格的接触を主張。難解な言葉を吐く変わり者の精神分析医。

アルチュセールはラカンを評価していたが、精神分析については信じていなかったようだ。48年教え子のフーコーが自殺をはかった時、「精神分析によってではなく、仕事によって病気を乗り越えるように」とアドヴァイスしたそうだ。フーコーも後に精神分析を批判しているが、これは後出しジャンケンに近い。

1960年頃 構造主義経済学が登場。発展途上国の経済構造は先進国とは異なるものであり、それゆえに経済格差が発生するとし、先進国と発展途上国で経済理論の使い分けが必要と主張。

良く分からないが、プレヴィッシュやミュルダールの発展途上国に関する議論は戦後まもなくから開始されており、ラテンアメリカでは普通「従属経済論」と呼ばれている。誰かがこの潮流に対して構造主義の名を冠したのではないかと思われる。

1962年 レヴィ=ストロース、「野生の思考」を発表。未開人の「神話的思考」は,決して近代西欧の「科学的思考」に劣るものではなく,象徴性の強い「具体の科学」であると主張。その最終章で、先進国中心思考だとして、サルトル(実存主義哲学)の主観や意識重視を批判する。

私注: 主観や意識重視はそのとおりだが、だからサルトルが欧州中心主義だとはいえない。サルトルはアルジェリア解放闘争に深く関与した。“何もしなかった”レヴィ・ストロースのサルトル批判は、けたぐり的な言いがかりだろう。
サルトルの思想は良くも悪しくも同伴者思想であり、マルクス主義、正確に言えばその戯画としてのスターリン主義が廃れば、共に廃れるしかなかったのであろう。

1965年 アルチュセール、「資本論を読む」を発表。マルクスの思想をヘーゲル的弁証法や主観主義などから解放(認識論的切断)するとし、骨格標本化を試みる。

ただしこの際、“ヘーゲル的弁証法や主観主義”は忠誠を押し付けるスターリン主義を指している。
それにしても弁証法の放棄は間違いだ。アルチュセールは70年代に入って、これらの主張を事実上撤回している。

1966年 フーコー、「言葉と物」を発表。構造主義の代表作としてベストセラーとなる。

フーコーの本は叙述的で、随所に彼の思想が散りばめられる(日本で言えば司馬史観)。ただしその叙述は不正確だという。歴史家としてのフーコー」を参照のこと。
エピステーメー(ときどきの社会規範をあらわす造語)として言説(情報のことらしい)を取り上げ、社会のネットワークから端末を取り外し、網(言語)のみを哲学の対象とする。

レヴィ=ストロース、フーコー、ラカン、バルトの四人が構造主義者と呼ばれる。

67年 デリダ、レヴィ・ストロースを「他者を根源的な善良性のモデルに仕立て上げ、自らを弾劾・卑下するにすぎない」と批判。

デリダがどういうつもりで、どう言ったのかは知らないが、日本人としてはきわめてよく分かる。スペインが新大陸を征服した時、ラス・カサスらは先住民を擁護するために闘った。その時に称揚されたのが「高貴な野蛮人」という言葉だった。「王様と私」というミュージカルそのままである。
これは「野蛮人」たる日本人にとっては、悪気はなくても侮辱である。「ジャポニスム」は裏返しの民族中心主義そのものだ。これでサルトルを論破した気になったのなら、まさに噴飯物でしかない。

67年 ピアジェが文庫クセジュで「構造主義」を執筆。フーコーを糞味噌にやっつける。その後フーコーは構造主義から離れる。

フーコーは構造なき構造主義である。フーコーの構造は形象的な図式でしかない。彼は歴史と発生を蔑視し、機能を軽視し、「人間はやがて消滅する」というほどに主体を否定する。

68年5月 フランス5月革命。構造主義は、政治や社会への参画に対処する力を持てず衰退。

デリダ、構造主義の発想の延長線上に脱構築論を打ち出す。ポスト構造主義と呼ばれる。一つの構造が壊されて、新しい構造が作られていく過程を言語過程として捉える。唯物論の自然・社会というところを“一括置換”して「言語」と置き換えれば出来上がる。

1968年 バルト、テキスト論を展開。「文学テキストに唯一の目的、唯一の意味、または唯一の存在」はないとし、徹底した相対論を主張。(人をけむにまく変なおっさん、以上のものではない)

1972年 ドゥルーズとガタリが「アンチ・オイディプス」を発表。この辺りから、マルクス主義の世界と断絶し、実践と遊離し、思索はつぶやきとなり、何を言わんとしているのかが分からなくなる。(認知症の進行と似ている)

1980年 アルチュセール、妻を絞殺して精神病院に収容される。5月革命においてすでに思想的にパンクしている。

1984年 ポスト構造主義が「ポストモダン」と呼ばれるようになる(日本ではニュー・アカデミズム)。表現が一段と難解になり、衒学趣味(文系人間の劣等感を刺激する)に陥る。

1994年 ソーカル事件が発生。ポストモダンはあっけなく消滅する。

ニューヨーク大学物理学教授のアラン・ソーカルが、科学用語と数式をちりばめた無意味な内容の疑似哲学論文を作成し、これを著名な評論誌に送ったところ、雑誌の編集者のチェックを経て掲載された。直後にソーカルは、でたらめな疑似論文であったと声明。

1995年 ドゥルーズが自殺。

1997年 ソーカル、「知的詐欺」を発表。「われわれの目的は、まさしく、王様は裸だ(そして、女王様も)と指摘する事だ」とし、ジャック・ラカン、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリらをなで斬りにする。

2001年 アントニオ・ネグリが「帝国」を発表。