ポストモダンの衰退を社会主義の復権と結びつけて論じた文章が見つかった。

ちょいと難しいので、分かる範囲で書き出しておく。

ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2014年5月号の文章。

「文化的個別主義」に反対する 左翼の武器、普遍主義

著者はニューヨーク大学社会学部準教授ヴィヴェク・チーバーという人。去年4月の記事だ。

書き出しはこうだ。

果てしがないかと思われた冬の後、資本主義とその新自由主義ヴァージョンに対する世界的な抵抗運動が復活してきている。過去40年以上もの間で、この種の運動がこれほど精力的に全地球規模で生じたことはなかった。

これはまさしく実感。

運動がこのように再出現した結果、この間の運動の退潮によって起きた被害の大きさにも光があたることになった。労働者が保有する運動の手段 は、かつてないほど脆弱になっている。労働組合や政党などの左翼組織は実質を失い、財政緊縮の支配の共犯者とすらなった。

その典型がイタリア共産党のなれの果ての「民主党」だ。

さらに、左翼の弱体化は政治・組織面ばかりではない。理論面でも同様である。

敗北に次ぐ敗北は、空前の知的衰退をもたらした。社会の変革という観念が知の風景から撤退したというわけではない。だが政治的急進性の意味そのものが変わってしまった。

たしかにそうだ。

「資本主義は本質的に抑圧的だ」とか、「世の中は搾取する少数と搾取される多数からなっている」とか、「労働者が団結することが勝利の鍵である」というような命題はいまや時代遅れとされている。

さてこれから構造主義批判が始まる。まず用語の問題。私の言う「構造主義」はアルチュセール、プランツァスからアントニオ・ネグリに至る現状追認派の流れだ。もちろん哲学畑の連中も十把一絡げにしている。

著者はこれをポストコロニアル学派と呼ぶ。

ポストコロニアル学派の主張

彼らに共通するのは、社会階級、資本主義、搾取といった概念の否定だ、と著者は言う。

マルクス主義は、ヨーロッパという土壌に形成された杓子定規な枠組みのうちに各地の特殊性を押し込むに過ぎない。

普遍主義という公理は、植民者権力の中心的支柱のひとつである。なぜなら、人類は『普遍的』な特徴をもつとする考え方は事実上、支配者のものだからだ。

普遍主義の神話は、『西欧』こそは『普遍』であるという公理の基盤に立った帝国主義的戦略に属する…

こういう持って回った言い方によって、社会主義を敵視し、階級闘争やグローバルな連帯を結局は否定していくのだ。

そこで問題は社会主義、とりわけマルクス主義が“西欧中心主義にすぎない”のかどうかの検討が必要になる。

マルクス主義の2つの前提

1.資本主義は、地その網に落ちた誰に対してであろうと、制約を押しつけるという法則だ。

2.資本主義が強化されるにつれ、遅かれ早かれ労働者側がそれに反旗を翻すという法則だ。

それらはいずれも、宗教や文化的アイデンティティとは無縁のものだ。それらは過去のあらゆる経験が実証している。

抵抗に生命を吹き込むメカニズムは、個人の幸福への希求と同じく、普遍的なものである。

しかし彼らは、民衆の抵抗を普遍的なものとしてみることを拒否する。なぜなら

社会闘争を唯物論的観点に結びつけることは、ブルジョワ的合理性を割り当ることに帰する。

からだ。しかし多様な要求の根底には生きることへの共通した願いがあるのではないか。

剰余価値の高い部門では、労働者は日々の生存のために闘うよりも、生活水準の向上に専念するだけの余裕はもつ。

だが「南」と呼ばれる諸国や、先進工業国のどまんなかでで増大しつある一部の部門では、別の事態が起きている。

このように批判したあと、著者はポストコロニアリズムが果たした歴史的役割をシニカルな筆致で締めくくる。

彼らは夥しいインクを使って自分たちが建てた風車を相手に闘った。

ローカルな文化と引き替えに、普遍的な権利という観念の信用を失墜させるとは、民衆の権利を蹂躙する専制者に対する、なんと素晴らしいプレゼントだろうか。