同じ文章を読み続けると、このあたりの力動に関してワロンの所説が述べられている。

ワロンといえば、むかし波多野訳と滝沢訳と苦闘しついに挫折したトラウマがある。

おそるおそる、読んでみる。といっても浜田さんの解説だが…

ワロンは、表象的な認識の系列を感覚運動ではなく、むしろ姿勢・情動に関わる系の方向に求めている。

感覚運動的活動というのは、直接知覚に与えられた場面の状況にあわせ、直接自己に与えられた欲求の動きに応じて、その場に適った行動を行っていく活動のことである。

要するに普通の活動のことだ。これとは別にワロンは別の活動系を想定する。

これを浜田さんは「姿勢・情動の系」と名づけている。

姿勢・情動がもともと他者への伝染・交通性と深く関わるものだけに、意識・表象は、最初から共同的なものとして措定され…

浜田さんは「ある場面に触れて予期的に身構える系」というが、これでは何のことやらさっぱりわからない。この人も結局、波多野・滝沢の同類か

私はこれは「辺縁系意識」と表現するのが一番いいと思っている。解剖学的にもいわゆる大脳辺縁系あたりに一致しているからだ。

「ヒトとしてのDNA」みたいな言い方がよくされるが、そこまでは還元されないにしても、遺伝的に備わった知能みたいなものがあり、それが大脳の基本骨格をなしている。哲学的に言えば人類の「類的本質」ということになる。

ワロンは言い出しっぺということもあり、また当時の脳科学の水準にも規定されて、「あれかこれか」の議論を展開せざるを得なかった。

今日ではこれは大脳の古皮質部分と新皮質部分の二層構造としてすんなり理解できるのである。

ただワロンの議論でもう一つの重要ポイントがある。それは生命意志の首座としての辺縁系である。

情動というのは曖昧な概念であるが、地球上に生命が誕生して以来の生きることへの欲望は、神経の集中点としての脳に集中的に表現されている。

自然の一部ではなく、自然と対峙し能動的に行動する意欲は、動物に共通のものとして、やはり脳に集中している。

そして群れて生活し、共同で生活を維持する人類の生活様式はDNAの内外に記憶として残され、大脳辺縁系に集中している。

このような重層構造として、ワロンの「姿勢・情動系」を捉えておく必要があるのではないだろうか。


下記は、「療養権の考察」(97年)のあとがきの一部である。多分誰にも見てもらえないと思うので再掲しておく。

彼(ワロン)は情動的自我を社会的自我に由来するものととらえ、これを自我の基層として措定する。この基層の上に、能動的実践を経て個性的自我が「析出」され るのである。このように自我を二重に構造化するというアイデアは、リビドー的本性の上に抑制的・社会的自我が構築されるというこれまでの「常識」を覆すも のだけに、極めて魅力的である。

 そこでは「能動性」はリアルで実践的な主体として把握される。ところで問題なのは「姿勢」と呼ばれる情動的な構えである。社会的動物として人類史的に形成された「人間性」というものは、ワロンにあっては、個性的主体の陰に隠れた辺緑的主体として把握される。

 この情動的自我は、それ自体が身体的・衝動的自我と、人類史的にインプリントされた「記憶としての自我」とのなんらかの統一体と思われる。そうしないとワロンの情動的自我は最終的に説明がつかないのである。

 ムィスリフチェンコの「人間概念」には、これと関連して輿味ある記述が多いが、これ以上はさすがに別の分野に入ることになるので省略する。ただ、いくつか紹介しておくと、

例えばグラムシは「社会関係のアンサンブル」というマルクスの規定を「現存する諸関係のみならず、その形成に到る歴史を含めての総体」と読み込んで いるようだが、「記憶としての自我」に近い考えだと思われる。

旧ソ連ではこれを「第二の遺伝系列」と想定する学者もいたようである。いずれにしても「人間 は社会的動物である」というような還元主義的規定では汲み尽くせない、リアルでダイナミックな人間観がそこから導き出されそうな気がする。