心理学のページをちょっと眺めると、こんな記述があった。

ピアジェは感覚的運動と表象とを同一の系列に並べた。なぜならこの2つはともに認識的な活動であり、その分析は認識論的な側面をもつからである。

さあ、最初からわからない。感覚的運動とはなんだろう。表象とはなんだろう。

感覚的運動
まず赤ちゃんは自分に使える感覚機能や運動機能を用い、「空間認知」の学習から始める…
と書いてあるから、おそらく誕生直後の学習活動のことなのだろう。これにより獲得された能力を、ピアジェが「感覚運動的知能」と名づけたようだ。感覚的運動という概念そのものがあるかどうかはわからない。

感覚運動的知能
「感覚運動的知能」という言葉だが、私が考えるにはこのような「知能」などないだろう。それは「知能の芽」でしかない。「芽」ではあるにせよそれは「知能の芽」ではなく「意志の芽」と呼ぶほうがふさわしいだろう。

あるのは感覚でのみ外界を知ろうという活動だけだ。いまの議論には関係ないが…
表象とはなにか

表象という言葉が難しいのは、普通の「表象」という言葉とは違う意味で使っているからだ。我々が「表象」という時は、「イメージ」とか「シンボル」という意味で使っているが、ここではそういう意味ではなく、「イメージすること」という動名詞らしい。英(仏)語の“Representation”の訳語らしい。だとすれば「表象」は誤訳で「想起」が正しいだろう。

ピアジェの言っていること
したがって、ピアジェの言わんとするのは、「五感を使って事物から印象を受け取る。その印象を一旦記憶にとどめ、ふたたび想起して反芻する」というのが、ひとつながりの認識論的過程であるということだろう。

私のコメント
一言で言って、それは相当飛躍した議論である。感覚的運動以外でも、認識内容を記憶にとどめ想起することは当たり前に行われる。赤ん坊の未熟な認識運動とのみ関連付ける必要はまったくない。

もう一つは、それらの行動にどの程度まで高次脳機能が関わっているかである。例えば視覚が運動に結びつく場合、下等生物では視神経から大脳基底核に行き、そのまま錐体路系へと指示が導かれる。

視覚が後頭の視覚野に投影されてイメージ化されるのは高等動物に属する機能であり、そのような動物においては視覚は二重性を持つのである。

乳児のいわゆる「感覚運動」はこれらの機能を十分に反映していない。むしろこれらの積み重ねが圧力となり、やがて高次視覚の“ゲートを開ける”ところに「感覚運動」の意義があるのではないか。