視覚の話で、頭頂葉まで来て、ひとつの結論として、頭頂葉の働きは視覚画像に時間軸を与えることだというところまで達した。そこから次の論理が出てこない。
なぜ時間軸を与えることがそれほどまでに重要なのかが、脳の研究そのものからは出てこないからだ。
それは研究そのものの責任ではない。自分が、ここまで見識を深めながら、それを進化の過程とダブらせてチェックして来なかったからではないか。
振り返ってみると、いくつかのポイントがあるように思う。
1.動物とは動く植物だ
ひとつは動物が動く生き物だということ。それは動く前にまず植物であったに違いないということだ。
生き物は生きるためには栄養を取らなければならない。何もなければ栄養を創りださなければならない。すなわち生合成である。
植物が十分に地球上に繁茂したとき、それに寄生する、あるいはその栄養に依存する植物の一種が出てきても不思議ではない。
そしてその植物が移動し始めたとしても不思議ではない。
植物の動物化の事象はまず海中で展開された。したがって、上記のような話ではなかったかもしれない。しかし本質的には海中を漂う生命体がどこかに固着して植物となり、繁茂して、しかるのちにそれに依存する生命体がでてくという過程は共通すると思う。
だから動物の生命の基礎には植物的なものが存在するはずだ。
2.動くことの本質は移動するところにある
植物が動物になるというのは、根無し草になるということだ。最初はたんなる根無し草だが、そのうち自走するようになる。
植物 |
動物 |
移動装置(捕食装置も) |
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生命維持装置 |
生命維持装置 |
栄養産生装置 |
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漂流にせよ自走にせよ、食料を確保しなければならない。そのためには移動というきのが必須のものだ。
目指す食料のもとにたどり着いて、それをどのようにして胃袋に収めるかは多様であり、本質的ではない。動物が示すさまざまな行動と、移動という行動ははっきり分けて考えなければならない。
動物の「動」という字は「移動する」という意味なのだ。
3.動物の脳は移動するためにある
三段論法で行けば、脳は植物にはなく動物に固有である。したがって脳は移動するための装置である、ということになる。
移動は食料の確保という目的に規定されており、どんな未発達な動物においても“目的意識的”行動である。「一寸の虫にも五分の魂」である。
この「目的意識」は、あらゆる感覚を利用して進むべき道を知り、筋肉を動かして進んでいく。動物にあって、移動する意志は生きる意志と同義である。
脳はそのための感覚器と運動器の接合ジャンクションである。しかしそれだけではない。脳は移動する意志、すなわち動物にとって生きる意志の凝集点なのである。
脳研究で、意識や意志の局在を研究している人がいるが、それはそれでけっこうだが、根源的には脳そのものが生きる意志の“宿り”であることを抑えておくべきであろう。
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