天北地区

この言い方は北海道でもあまり馴染みがない。どちらかと言えば共産党の専売特許みたいな名称である。

共産党の天北地区委員会の管轄は、実際のところ宗谷支庁に限定されているので、そうや地区委員会と読んでもおかしくはないのだが、何らかの経緯があるのだろう。

各支庁の位置を示している北海道の地図

天北の天は天塩の意味である。北の方は北見の北である。しかし天北地区委員会の管轄には北見も天塩も入っていない。入っているのはそのどちらでもない宗谷である。

宗谷支庁は支庁所在地の稚内とその周辺、日本最北端の宗谷岬を回りこんでオホーツク海側に入って遠別、中頓別、浜頓別などの町村である。

そこから先は網走支庁となる。

天塩という支庁はない。日本第二の長さと、手付かずの自然を誇る天塩川の流域がそれに当たる。

私は親譲りの戦前の地図を持っていたが、それには「…支庁」ではなく「…国」という名があった。

これもまた変な話で、北海道が「…国」に分割されていたのは、明治の初期に限定される。正確に言うと明治2年9月20日に北海道11カ国が令制国に追加されたのである。

hokkaido11

ウィキペディアより

その際、分割の根拠になったのは江戸時代末期に各藩が管理した区域である。Xチガイボウ印伊達屋のホームページというサイトから転載させてもらう。(このページはめっぽう面白い。山好きにはたまらないだろう)

蝦夷地各藩分冶地図

新北海道史 第二巻 通説一より転写

そこには天塩国と北見国がしっかりある。しかし宗谷国はないのだ。宗谷は北見国の一部となっている。そもそも北見という名前は北に樺太が見えることからつけられたらしく。そもそもは宗谷地方を指している。いま北見市というのは野付牛という農村が市制を施行にするにあたって勝手につけた名前のようだ。

天塩国は現在の留萌支庁と上川支庁の北部(すなわち天塩川流域)を統括している。

廃藩置県や北海道庁の設立や何やらで、行政区画がイロイロ代わって、呼称も代わったのだが、結構後の世まで「…国」の区画は生きていたようだ。

北海道町のホームページに「支庁制度について」というページがあり、簡単に経過が述べられている。

とにかく、やる気の感じられない文章だが、一応まとめてみると、

明治5年 北海道開拓使が設置、その出先機関として5つの支庁が設けられた。その下(?)に19の郡役所が設けられた。

明治30年、支庁が郡役所所在地を元に編成されることになり、19支庁制度がスタートした。

明治43年、鉄道開通に伴い交通事情が改善したことから、19支庁が14支庁に再編された。

この区分は、その後、戦前・戦後を通して現在に至るまで変わっていないようだ。

それで話が戻って、天北のいわれだが、どうも国鉄の天北線が発祥のようだ。天北線というのは天塩と北見をつなぐ線路という意味だろう。

宗谷本線の位置

大日本ノスタルジィ鉄道 宗谷本線 より

なお、この地図がいつのものかは分からないが、ウィキペディアによると上音威子府の後、店舗くトンネルを抜けたあとに天北栄という仮駅があり、上頓別と敏音知(ピンネシリと読む、温泉がある)の間に恵野、敏音知と松音知の間に周磨、松音知と中頓別の間に上駒、中頓別と下頓別の間に寿と新弥生、下頓別と浜頓別の間に常磐、浜頓別の次に北頓別、山軽の次に安別と飛行場前、声問と南稚内との間に宇遠内野駅があったようである。

天北線というのは、地図を見れば本当にどうしようもない路線で、なんで作ったのかわからないみたいな線路だ。

これには理由があって、元々はこちらが宗谷本線だったのだそうだ。それが昭和5年に日本海に出る線路が造られてしまったから、ますます無意味な線路になってしまった。

天北線は天塩線に本線を奪われてからは北見線と呼ばれ、天北線と改称されるのは昭和36年のことである。それほど歴史に根付いた名前ではない。

ただ鉄道の全盛期には網走から稚内までオホーツク海岸を貫く路線が計画されていたようなので、その構想の一部としての戦略的意義はあった。それだけの路線だ。

音威子府は上川支庁管内(旧天塩国)だが、小頓別から先は宗谷管内に入る。つまりそのほとんどが宗谷支庁をベタで走る路線なのだ。北見国ではあるが網走支庁ではない。現在感覚でいう北見とは全く関係ないのだ。

野付牛が戦時中に北見市となった後は、紛らわしいと不評を呼び、名前も奪われてしまった。

天北線の沿線地帯を天北地方というのは、それなりの合理性はあった。いかにも行政区画とはちぐはぐな呼び名だが、それだけに住民は一種のアイデンティティーを感じたのかもしれない。

ただ肝心の天北線ははるか昔(平成元年)に廃線となっており、鉄道の記憶が薄れるとともに、いずれ消え去る呼び名かもしれない。