第1章 療養活動をとりまく今日的環境

 

 ここでいう「療養」とは,病者がさまざまな方法を用いて病気を癒しながら,自らの生活を維持・発展させていくことである.それは一つ一つの療養行動を指していう場合もあれば,生活と結びついた一連の活動を指す場合もある.ここでは後者を療養活動とよぶ.

 とくに慢性疾患の増加にともない,この考え方がおおきくクローズアップされている.それは日々の「いとなみ」とともに繰りかえされる活動である.

 たしかに疾病という破壊的状況からの身体的・社会的回復過程は,基本的には一回きりの出来事である。それは、「いとなみ」の概念では括りきれない実存的なものである.しかし急性期を乗り越えた後の長い回復過程は,生活の本質的再生産過程である.病者はそこで病気と闘うだけではなく、「いのちと暮らし」を紡ぎだす。

 ところで「療養活動」なる言葉は,そもそも私の造語である.なぜこの言葉を用いてなにをカテゴリー化しようとしているのか.以下にその背景となる今日的諸特徴をあげてみたい.

 

第一節 歴史的成果としての療養活動概念の成立

 療養活動が重要な社会的活動として認識されるようになったのはつい最近のことである.

 それまでの歴史のなかでは,個別の療養行動はあったが,その積み重ねとしての療養生活過程はほとんど存在しえなかった.療養行動そのものも,生き残るという明確かつ強烈な目的を持っていたにせよ,その手段はあまりにも貧弱であった.

 療養が人間的活動の一分野かどうかなどということはあまり議論にはならなかった.病を負ったり傷を負ったりした人間は,自然になおるか死ぬかのいずれかしかなかったからである.

 近代社会の発展の中で二つの事態が進行していく.一つは医療技術の進歩により療養活動に具体的な技術手段があたえられたことである.もう 一つは,社会を支えていた共同体が分解し,個人がバラバラに切り離されていったこと,その中で生産活動以外のいっさいの活動が私事とみなされるようになっ たことである.

 この結果療養活動は偶発的なものとなり,社会とのかかわりは希薄となり,個々人の私的生活過程のなかに封じ込められていった.

 しかしそれにもかかわらず,社会的関心はきわめて強かった.だれもが一生のうちにかならず経験する重大な問題であり,生命そのものにかかわる事象であるためである.

 いっぽう,医学技術の飛躍的進歩は,高血圧,糖尿病を代表として,疾病の治癒には至らないがコントロールを可能とした. それに伴い「健康とも不健康とも言いがたい」グレー・ゾーンに属する患者が爆発的に増加した.彼らは「慢性疾患」あるいは「成人病」などと呼ばれるようになった.

 慢性疾患の増加にともなって,「病を負いながら生きる」ということが真剣な生活問題になってきた.国民有病率が15%に達するなかで,療養活動は社会的活動の無視しえない一分野を形成するにいたった.

 多くの患者が生み出されるだけでなく,その多くが生き残ることが,療養活動をますます普遍的社会現象としつつある.さらにその多くが正常に近い社会生活を送るということから,病者自身の社会的影響力も大きくなっている.

 ここに「療養活動」という概念が必要となった最大の根拠がある.

 これらの変化は,社会的生産力が発展したからこそ実現した事実である.それは人類が自然に対して勝ちとった偉大な歴史的成果である.

 

第二節 療養活動とその疎外形態

 あらゆるものの商品化が現代の特徴的傾向である.それはたんなる商品化ではなく,大量生産・大量消費をともなう「欲望の商品化」時代であ る.それは一方において選択肢の多彩さ,便利さの発展であるが,他方欲望の一面的な肥大がマスコミの統制下に進み,貧富の差が生活の全場面におよぶことを 意味する.

 生活過程を構成するさまざまな活動と同様,療養活動もこのような資本主義的市場システムに包摂されていく.療養活動のためのさまざまな手段が,すべて商品となっていく.

 かくして療養活動の重要な部分である療養のための手段の獲得が,まず購買活動として開始されるようになる.療養活動が購買し消費する活動 として仮想されること,これは現実に起きている逆転である.この現実における逆転を基礎として,「療養活動とは健康を買うこと」という逆転した発想が現れ てくる.

 「健康」という言葉は,もともと諸個人のありようを形容する言葉として用いられてきた.それがいつのまにか名詞化され,独立した「モノ」のように扱われるようになっている.「安心」とか「快適」なども同様である.こういう風潮は健康とはいえない.

 

第三節 受療行動の一般化

 医療機関を受診し,診療を受けるという行為は療養活動上ますます不可欠な要素となっている.病気と闘うための手段やノウハウが、ますます医療機関に集中しつつあるからだ。

 こうした「受療行動」は療養活動を構成する諸行動の中でももっとも核心となるものであるために,ときに療養活動そのものと考えられることもある.

 そもそも療養活動なる概念は医学医療の技術的発展によってはじめて実現しえたといえる.療養活動は医療サービスから「自立」するのではなく,医療との結びつきを強めることによって,その内容を深くゆたかなものとしてきた.

 有病者の増加は受療機会の増大をもたらした.さらに長期通院患者の増大が病者と医療者との関係を変化させつつある.国民にとって医療との接触は特殊な非常事態ではなくなり,日常生活のひとこまとさえなりつつある.これに応じて患者と医療者のあいだにも,これまでと違った世間並みの人間関係がもとめられるようになっている.

 かつて絶対的にも見えた医療者の診療権限に対する,患者の「寛容」の限界線が揺らぎをみせている.これは民主的な方向に大いに推進されなければならない.

 

第四節 医療の「大衆化」と「商業化」

 受療行動の一般化は,また「医療の大衆化」という側面からも評価される.医療の大衆化は,その歴史的由来からすれば国民の広範な運動の成果として説明される.しかし現実の場面における「大衆化」は,むしろ商品経済やそのもとでの支配的な意識の浸透としてとらえられる.すなわち「民主化なき 大衆化 」である.

 医療は市場経済にたいする「聖域」であることをやめ,「誰もが買える商品」という幻想のもとで本来の姿をゆがめられていく.商品の多彩化 という衣をまとって金銭による差別が進行している.無差別医療の原則は崩壊しつつある.耳ざわりのよい横文字をもちいて「選択の自由」こそ医療の根本理念 でもあるかのようなキャンペーンが意識的に流されている.

 確認しておきたいことは,今日病気の治療を推進しているのは社会全体の力なのだということである.医療資源の供給にせよ療養のための給付にせよ,その圧倒的な部分は社会的な共同責務 として担われているのである.少なくとも日本においては,療養活動も医療活動も,例え個人的な色合いをどれほど強く持とうと,まずもって社会的な活動なのである.

 

第五節 受療意識の「変容」と歪み

 医療供給体制における市場経済の浸透と,療養活動をふくむ生活様式の資本主義的変容とが,あいともなって進行している.それは受療行動をめぐる意識構造に変化を与えつつある.

 受療行動はあたかも,あれこれの医療サービスを選択し購買する行動のように考えられるようになる.受療権は,生存権にもとづく人間本来の権利としてではなく,サービスを購買したことによって生じる私権=契約上の権利と見る風潮がひろがっている.

 医療労働はその具体的能動性を剥奪され,たんに支払われた代価にふさわしい量と質をもった無機質な労働,すなわち「良い医療 」としてのみ期待される.「善い医療 」はそこでは捨象される.

 日本でも一部でもてはやされている米国の消費者運動には,契約中心の価値観を天与のものと考え,「人は生まれながらにまず消費者である」かの ように主張する傾向がある.それらがまるごと受療行動の論理として持ち込まれると,「顧客としての権利」によって受療権や療養権を説明しようとする傾向が生じる.これによって社会的権利としての真の療養権のありようが歪められていく可能性がある.

 

第六節 人格的活動としての療養活動

 ところで,人間はその行動を科学的合理性にもとづいてのみおこなうわけではない.その人の作り上げてきた価値観とか人生観とか正義感とかに依拠して,ときには非合理な行動も含めて行動するのである.この点において療養活動は,一定の文化的背景のもとに、それ自身が文化を創造する人間的活動で もある.

 療養生活は灰色一色ではない.それどころか,きわめて高い人格水準のもとに営まれる可能性がある.それは戦争をはさむ数十年間,日本文学の最高傑作のいくつかが,療養生活のなかで書きあげられた事実を指摘するだけで充分であろう.

 民医連綱領には「患者の立場にたつ」という言葉がある.それが意味するのはたんなる社会的ポジションの問題だけではない.その言葉のうちには,病を負って,負いながら生きてきたこと,これから生きていくことの意味を理解しようとする姿勢がふくまれている.そこでは病者たちの生活と倫理に, 生活者として寄りそい,共鳴し,連帯していくことがうたわれているのである.

全日本民医連はその綱領の最初に「患者の立場に立つ親切で良い医療」を掲げている。そこには個別の患者ではなく、弱者の立場という「階級的」視点が内包されている。

 


いま考えてみると、この部分を本の冒頭に持って来るべきだったかもしれないと思う。

本を手にした人の殆どは、「権利」をめぐる七面倒臭い議論で挫折してしまって、ここまで辿りつけなかったかもしれない。

そういった人たちのために、ここの部分を再掲しておく。ただし「今日の状況」というのは20年前の現状である。