そもそも何だということだ。

思い起こすと、中山智香子さんという人が赤旗に登場して、なかなか面白いことを言っていた。それでその人がポラニーというハンガリーの革命家上がりの理論家を取り上げて「面白い」というので、まずはその周辺から調べようということでハンガリー革命から、赤いウィーンへと見聞を広めていった。

そうすると、ポラニーが「社会主義計算論争」の一方の当事者だったということと、他方の当事者がハイエクだったということがわかり、「これは勉強してみないとアカンな」と勉強をはじめたが、これがえらく難しい。

ありていに言えば、途中で挫折した。

わからないのに偉そうなことを言うのもなんだが、この論争は突き詰めていくと「ワルラス均衡」という需要と均衡のバランスが市場なしに成立しうるのか、ということである。それはボリシェビキが主張した「計画経済」というものが成り立ちうるのかという現実社会の問題を下敷きにしていた。だから理論的対立であるのと同時に、優れてイデオロギー的な問題であった。

そこで頭の訓練として自転車の理論を持ちだして、平衡とは何かについてあれこれ考えてみた。

結論としては、平衡自身が目的ではないということだ。それが動的平衡であり、それは常に平衡を破りながら新たな平衡を実現していく過程であるということが分かった。そしてより根本的には、平衡を取りながらどこへ進んでいくのかということなのだ。

そこには意志が働く。かつて人類が長い歴史の中で自然を克服したように、社会の無政府性を克服しようという意志だ。まさに「フォイエルバッハに関するテーゼ」だ。

というわけで、「均衡」の基本的理解はできた。それができたからといって「ワルラス均衡」が分かるわけではない。

この議論は最終的にはランゲという人がサイバネティクスの論理を持ち出すことによって、「理論的には市場なしにワルラス平衡を実現しうる」ということで落ち着いたらしい。なおランゲはポーランド出身でイギリスで活動した経済学者らしい。

しかしその勝利は虚しいものだった。ボリシェビズムはスターリンにより汚染され奇形化されていた。逆にハイエクの議論はよりイデオロギッシュに収斂されていった。

それでは少しさかのぼって、レーニン=ブハーリンのネップはどうなのだろうか。というのが関心の一つ。もちろん、その過程で一種の「異端」として提出されたポラニーの社会主義論も引き続き関心の一つではあった。

というわけで、いっときは疲れてやめてしまったのだが、ウィーンの魅力は人を引きつけて離さない。また1900年代初頭のウィーンに舞い戻ってしまった。ブラームス、ブルックナー、ヨハン・シュトラウスがいなくなってしまったあとのウィーンである。

言うまでもなくNEPはレーニンの構想になるものであるが、その実施過程ではブハーリンが深く関わった。

NEPがボルシェビズムの本質として理解されていたかというと、どうもそうではないようだ。すくなくとも1920年代後半からはボリシェビズム=スターリニズムとして理解されている。

どうもこのへんの関係が分からないので、ロシア革命以前の状況に立ち戻る必要がありそうだ。これだけですでに十分状況は複雑だ。

多分、大本は1894年の資本論第三部発行にあるだろう。資本論はドイツ語で書かれているから、当然ドイツ語圏の人にプライオリティーがある。

中でも編集にあたったエンゲルスに解釈権があるのだが、外部からの批判についてはフリーハンドだ。そこでベーム・パヴェルクが噛み付いた。

この人は理論的には大したことはないのだが、批判は的をついていた。第一巻の論理との不整合性だ。エンゲルスが解釈を独占するのを快く思わない人々は、ここぞとばかりに論争に介入した。

これに対しエンゲルスは対応しきれない。家元たる後継者カウツキーには才覚はない、ということでまだ一介の学生に過ぎなかったヒルファーディングが論争を買って出た。彼は第三部の構想を発展させ、銀行資本が生産システム全般を支配する世界がやってくると主張した。

これはいまから考えると変なのだ。大谷さんの研究によれば、第三部は草稿に過ぎず、第一部が書かれた後に第一部の論理に相応するように書きなおすべきところを含んでいる。

現にマルクスは第三部を書いている途中に第二部に戻り、大幅に加筆補充している。第二部でさえ、第1部との関係では不十分なものを含んでいるのだ。

第三部の記述で不整合があれば、それは第一部(とくにフランス語版)の立場から再吟味しなければならない。これが基本的立場だ。

話は長くなったが、つまり資本論第3巻を読みこなしたというただそれだけで、20世紀初頭において、ヒルファーディングはマルクス主義陣営における最高の理論家だったということだ(しかもたかだか一介の少壮学者だ)。そのことを頭においておく必要がある。

ということで、ウィーンは若き社会民主主義者(マルクス主義者)のメッカとなった。やがてエンゲルスが亡くなると、若者はカウツキーの下に行くかヒルファーディングのもとに馳せ参じるかという二者選択になる。

ブハーリン、トロツキー、コロンタイはウィーンに赴き、レーニンはそれをスイスから眺めていた。

という構図を読み取れるのではないか、と思っている。